第9話 クスランブル交差点

翌朝、康子は早めに起きて帰っていった。

「悪いから起こさないで」と寝られずにいた僕に言うと、小林の寝顔に手を振って出て行った。ドアを開け、朝陽の中に浮かぶ康子の後ろ姿には、やはり霧がなかった。


洗面台に向かい鏡を見たが、僕にも霧はない。布団をはだけて寝ている小林も見たが、やはり霧はなかった。

僕は小林を起こさずに部屋を出た。早朝とは言え陽は高く上り快晴の空は澄み切った水色だった。まるで僕の不安を笑い飛ばすかのような清々しさ。

そんな気持ちから逃げるように電車に飛び乗り、僕はとある場所を目指した。


当然のこと電車内の人々には皆、霧が掛かっている。色や濃度は様々だが、確かに霧はかかっていた。つり革に掴まる自分の手には、やはり霧は掛かっていなかった。

ただし、そのことでほかの乗客から不審がられている様子はない。


通勤時間帯のせいもあり電車内は混雑していたが、幸いなことに赤い霧はいないようだ。目指す駅に着き、人の流れに乗って移動すると、目的の場所へとたどり着いた。


渋谷駅のハチ公口。

ここには世界有数のスクランブル交差点がある。そこでたくさんの人を見てみたい、と思った。もしも自分たち以外に霧のない人物を見つけることができれば、安心できると考えたからだ。

今は「自分たちは異常」なのでは?との考えが思考の大半を占めている状況だ。


外国人旅行者からも人気のある交差点には、その動きを撮影しようと、多くの外国人の姿も目に入った。しかし、彼らにもしっかりと霧が掛かってることに落胆は隠せなかった。人種には全く関係はないようだ。


そんな撮影者に混ざって、しばらく交差点を行きかう人々を観察したが、誰一人として霧のない人物はいなかった。やはり、自分たちだけが異常なのか、或いは何かの理由があるのか、巡る思考の中に答えは見つからなかった。


仮に自分だけならば『本人だから』と見えない可能性も出てくるが、小林と康子までもが見えない事実から『三人だけに霧が存在しない』としか言えない。

そこから『ただ見えないだけなのか、元からないのか』との疑問が沸き上がる。

『元からなければどんなに目を凝らしても見えるはずはない。あるのに見えない場合は、何かの理由があるはずだ。ではその理由とはなんだ?』そんなことを考えているとき、携帯の振動がポケットの中に感じられた。相手は小林だった。


『なんだ起こさずに帰ったのか』

「ああ、康子も起こさないようにって」

『変な気をまわすなよ。で、どこにいるんだ?騒がしいな』

「ああ。ハチ公前」

『そこで何してんだよ』小林の笑いが耳に響く。

「ちょっとな」

『講義はどうする?』

「今日はやめとく」

『珍しいな。ま、なにかあったら連絡よこせよ』そう言って小林は話を終えた。会話の間も、僕の目は通り過ぎる人々に向けられていた。一人でも霧のない人物を見つけたかったからだ。それでも一人も見つけることはできなかった。

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