第45話 祐也

 初めにワシが向かったのは、秀明の息子の元だった。秀明の身体が焼かれた日から、そんなに経っていないつもりでいたが、既に数ヶ月が経過していたらしい。


(ついに時間の感覚までおかしくなり始めたか)


 自分の衰弱具合を苦々しく思いながら、この男の住む家の中を覗き見た。どうやらまだ早朝で、住人たちはまだ寝ているらしい。


 ふと、居間の方に目をやると、まだ頼りない足取りの洸太こうたが、家の中を歩き回っている。一人だけ早く覚めたのだろうか。


 気づくと一人しゃがみ、何かを小さな紅葉のような手のひらで捉え――口に入れた。


 何気なく目の端で追っていたワシだったが、焦って身体を洸太の方へ体を飛ばした。


「何をやっとるか、お主は。これ、吐き出せ、ペ、ペだ」


 話しかけて、気づいた。今は具現化しておらず、元の主人のように力を持った人間でなければ、この霞のようになった姿は見ることができない。


 しかも、力をほとんど使い果たし、崩れかけた体では、人前に姿を現すようなことはもうできない。使ったが最後、この場で消滅してしまう。


「くそ……。ほれ、吐き出せ、そんなものを詰まらせて、窒息死でもしてみろ。ワシはお前を許さぬぞ」


 どんなにそう訴えても、見えないものは見えるはずがない。ぐるぐると洸太の周りを回りながら、極力負荷の低い方法を考えた。


(仕方ない、これでどうだ)


 ガシャン!


 指先を振り、居間に置かれていた花瓶を引き倒した。洸太からは離れたところに落としたので、怪我はないはずだ。


 狙い通り、床に叩きつけられた花瓶の音を聞き、この子どもの両親が飛び起きてきた。


「えっ、ちょっと洸太、なにやってんの!」


 母親は急いで洸太を抱き上げ、口の中のものを取り出した。どうやら硬貨を舐めていたようだ。


「なんで花瓶が……地震でも起きたのか?」


(祐也、という名だったな。間抜けそうな顔をしておるわ)


 男の姿を眺めていると、身体の中心がずきり、とした。この男は母親似だが、横顔に秀明の面影を宿している。


 祐也は、洸太が無事であったことを見届けた後、急いで身支度を整え、肩に大きなかばんを引っ掛けて自宅を出て行った。



(なんとまあ。この時代の人間は不便に身を突っ込んで行くような、不思議なことをするものよ。この景色を見るたび、首を傾げてしまう)


 満員電車に揺られ、押しつぶされそうになりながら、祐也はどこかへ向かっていった。おそらく、この都会の中心のどこかの箱の中へ、働きに行くのだろう。鮨詰めの電車を降りた後ろ姿を、フラフラしながらついていく。


(亡くなって半年も経たぬのに、あまり悲しんでいるようには見えぬな……そういうものなのだろうか)


 そのまま、日中は祐也の後をついて回った。生き生きと働く彼の顔には、まったく影を感じない。祐也のそんな様子を目にし、自分だけが闇に囚われ、おいていかれたような、虚しさを感じた。


 帰路に着くため再び電車に乗った祐也は、自宅に帰り、子どもを風呂に入れ、模範的な一日を家族と笑い合いながら、終えた。

 

 静寂が夜を支配するほどの時間を迎え、ぼんやりと橙色に光る常夜灯を残し、あたりは薄暗い闇と化す。


 ワシは天井を見上げながら、考える。


(……もう、父親のことなど、忘れてしまったのだろうか。これでは、生まれ変わった後の秀明を託すのは、難しいかもしれん)


 痛む体をさすりながら、次はどこへ行こうと、逡巡する。思考に耽っていると、背中の方から、パチン、と明かりをつける音がした。音のした方向を見ると、祐也が、ぱそこん、なる機械を持って、居間に入ってきた。


(晩年、秀明もあれを習いたいなどと申していたな。今の時代は、ぱそこんが出来なければ、働き口がなくなってしまうと言っていた)


 今からもう一仕事しようというのか。なんとまあ勤勉な男だ。仕事の後は、毎日ヘベレケになるまで飲んでいた秀明とは似ても似つかない。だが、ぱそこんの横に置かれた書物の束を見て、度肝を抜かれた。


 そこに置かれていたのは、秀明の日記帳と、芳名帳だったのだ。


 カタカタ、と音を立てながら、祐也は文字を綴り始めた。後方からは画面がよく見えず、何を書いているのかわからない。もどかしく思いながら、しばらく眺めていると、そこへ、祐也の妻――七海も起きてきた。


「あ、また小説書いてる。どう、進んでる?」


「あれ、うるさかった? ごめんな。……早く書き上げちゃいたくてさ」


「お義父さんの小説かぁ。楽しみだな。でも、もともと小説なんて書いてたっけ?」


 父親の小説、という言葉が頭に引っかかった。一体どういうことだ。


「いや、初めて書くからさ……なかなか難しくて」


「そもそも、お義父さんの思い出を残すのに、なんで小説なんて書こうと思ったの。アルバムとかじゃダメなの?」


 祐也は眉毛をハの字に曲げ、力無く微笑んだ。


「あの人、すごい目立ちたがりだったじゃん? 晩年、病気が進行してきて、めちゃくちゃ荒れた時期があってさ、親父。その時に、『俺の人生はこんなはずじゃなかった。もっと、誰かに認めてもらいたかった』って嘆いたことがあってさ」


 鈍く、ズキズキと鈍い痛みだったものが、一瞬、金槌で殴られたような痛みに変わる。


(そうだ……そんなことを言っていたこともあったな……)


 ワシがこんな力を与えなければ、そんな思いは抱かずに済んだかもしれない。それなりに賢く、愛嬌のある秀明のことだ。仕事でももう少しうまくやれていたかもしれない。再び、後悔と懺悔の念が押し寄せてくる。


「だからさ、親父を主役にした、物語を書こうかと思って。上手くいって、これが書店とかにならんでさ、たくさんの人にこの田舎のクソ親父の話を読んでもらえたらいいな、と。書籍になったらさ、親父の墓に、親父の本を供えてやるのが、俺の今の夢なんだよ」


 七海は、祐也の話を聞いて、少しだけ涙ぐんだが、すぐおどけた顔で笑ってみせた。


「頑張ってよね、新人小説家さん。その夢が叶うかどうかは、あなたの文才にかかってるのよ?」


「……馬鹿にしてるだろ。これでも作文は毎回花丸もらってたんだぞ。……まあ、本にするっていうのは、叶ったらいいなくらいの話だけどさ。こうやって父親の人生と改めて向き合って、自分の中で整理する時間が、今の俺にとっては、大事なんだよ」


 七海は、ふぅ、とため息をつき、「ほどほどにしなさいよ」と言い、祐也の肩をポンポンと叩いてから、部屋に戻っていった。




 ――ぱそこんにむかう、祐也の横顔を見て。やはり、この男には頼めない、と思った。


(この男は、秀明を大切に思いながらも、もう、あの男の死を乗り越えようともがいているのだ。次の時代を生きるこいつに、過去の後悔を掘り返させるようなことをするのは、忍びない)


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