第26話 傷心
森本さんは黙ったまま、人混みの中を歩き続けた。
私も声をかけられぬまま、彼についていくと――到着したのは遊歩道に面した、古めかしい商店街に位置する薬局だった。
店の前で待っているように言われ、しばらくすると、おでこに貼るタイプの冷却シートを持って戻ってきた。
「そこのベンチに座れ。ほら、早く」
言われるがままに遊歩道に設置されたベンチに座ると、森本さんは冷却シートを箱から一枚取り出し、私の頬に貼り付ける。
「ヒャッ」
「・・・結構赤くなってっからな。ほっとくとアンパンのヒーローみたくなっちゃうから、しっかり冷やしとかねえと。かわいい顔が台無しになったら、もったいないだろ」
ニカッと、冗談ぽく笑った森本さんだったが、いつもに比べると力ない笑顔な気がする。
自分が騙されていた事実や、きっと先程の彼女の発言が、相当ショックだったのだろう。
しかし森本さんは、典子さんと離れてからも、一切彼女の悪口は言わなかった。
「ありがとうございます・・。森本さん、手当がすごい的確ですね・・。私より女子力高いかも」
「大工は怪我が多いしなあ。あと、弟が子どもの頃しょっちゅう怪我してて。母さんがよく、こうやって冷やしてたんだよなあ」
森本さんは、冷却シートの残りをビニール袋に入れて、私にくれる。そして、ハの字に曲げた眉毛のままで、こう言った。
「・・みさきちゃん。今日はもう帰ろう。ほっぺた痛いまま、あちこち見たり、食べ歩いたりってつらいだろ。・・鶴川まで送るからさ」
本当は、もう少し森本さんと一緒にいたかった。そして、できれば彼の痛みを、少しでも癒やしてあげたい。
でもおそらく、今彼が求めているのは、「一人になる時間」なのだろう。
「・・そうですね。ありがとうございます。・・じゃあ、駅に向かいましょうか」
――森本さんは、駅に向かう道中も、電車の中でも、もう、私の手を握ってくれなかった。
ちゃんとはぐれないように見守ってはくれているのだが、縮まったはずの心の距離が、再び開いてしまったような気がする。
鶴川駅に着いて、森本さんにお土産のパンを渡した後、私は念押しするように、森本さんに言った。
「また・・会えますよね?」
すると森本さんは、一瞬視線を下に落とし、ポリポリと頭を片手で掻いた後、
「また、連絡するよ」
と答えてくれた。
――だが。この日を堺に、森本さんとは一切連絡が取れなくなってしまったのだ。
*****
(・・今日も出ない)
私は電話が留守電になるのを確認して、通話を切った。先日のデートからもう一ヶ月以上経つ。以前は向こうから、数日に一回電話なり、SMSなりが来ていたのだが、森本さんからの連絡が一切ない。
仕事が忙しいのかもしれない、と思い、デートから一週間後くらいに一度こちらからSMSを送って以降は、私からの連絡は控えていた。
でも、流石に梨の礫すぎる。それで今日、日曜のお昼のタイミングで、電話をかけてみたのだ。
(電話とSMS以外の連絡先はわからないし、職場も家も知らない。あんまりしつこくして嫌われても嫌だし、向こうから連絡が来るまで待つしかないのか・・・)
自室にこもっていても、気持ちが滅入りそうだったので、ダイニングに降りていった。今日は朝から父がゴルフにでかけていて、母しかいない。昼食の準備をしていた母が、私に気づいて声をかける。
「ちょっと前までは毎日ハッピー、みたいな顔してたのに、ここしばらくは随分暗いわねえ。なあに、恋煩いでもしてるの?」
目線は食材に向いたまま、母は探るように私に問いかける。大根を切る、小気味いい包丁のリズムが、耳に響く。
「そんなんじゃないって」
最近は、ついつい反抗的な態度をとってしまう。一度母親を経験していようとも、自分の母親に対する反抗心は抑えられないらしい。
切った大根を鍋に落とした母が、鍋に蓋をして、私の方に向き直った。
「懐かしいわねえ。お母さんも、あんたくらいの頃は恋に一喜一憂してたわねえ」
「だから違うってば」
私の返答が聞こえないかのように、母は続ける。
「まあなんでもいいけど。この人は、って人が出来たら、お母さんに相談してね。お母さんは、あなたが心から恋した人なら、それが誰であろうと、認めようと思ってるの。お父さんはわかんないけどね。
それが会社員でも、同じ大学生でも・・・大工さんでも」
大工さんでも、といったところで、母の両眉が上に上がったのを、私は見逃さなかった。母は、確信を持って何かを私に白状させようとするとき、この顔をするのだ。つまり・・・森本さんのことは、おそらくバレている。
「・・・まだ、付き合ってるわけじゃないから。お母さんに話すような関係になったら、ちゃんと紹介する」
「楽しみにしてるわ」
してやったり、という母の笑顔を見て、私も釣られて笑いが漏れた。
――典子さんの発言を聞いて、私も少なからず思うところがあった。
私は森本さんが、私のことを再び愛してくれるなら、この人とまた一緒になりたいと思いはじめていた。
でも典子さんが言うとおり、ウチと森本さんの家庭では生活レベルが違う。そして、少なくとも父は、ブルーカラーということで、森本さんのことを偏見の目で見るかもしれない。
単に興味から首を突っ込んできただけの、母の発言だったかもしれないが――不安だったことの一つが、心の中で解けていくようで、体の芯がじんわりとあたたまるのを感じた。
「あら・・二階でスマホが鳴ってるみたいだけど。・・例の彼かしら」
私は母のその言葉に飛び上がった。ニコニコと笑う母を背に、階段を駆け上っていく。
焦ってスマホを取り落としそうになりながら、両手で掴んで画面を確認する。
――着信元は「森本さん」。
急いで画面をスワイプし、スマホを耳に当てた。
「もしもし、みさきさんですか」
電話口に出た声の主は――森本さんと声は似ていたが――別の誰かだった。
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