第24話 マルシェ

 言葉通り、森本さんはすぐに戻ってきた。しかも電話ついでに、マルシェのガイドブックをもらって帰ってきたらしい。席に座り、一枚を私に手渡してくれた。


(一体なんの電話だったんだろう・・・しかも、毎週って)


 正直、今すぐ問いただしたい気持ちで一杯だったが、「個人の事情」とバッサリ切られてしまっているので、ここで聞いて雰囲気を悪くしたくない。モヤモヤするが、一旦考えないようにすることにした。


「マルシェって、色々やってんだなあ。野菜の直売、雑貨や食品の物販から、大道芸までやってる。なんか言葉を聞いたときは、一体何するものか全然想像つかなかったけど。俺、ここ行きたいかも」


 森本さんが指差したのは、パン屋の出店エリアだった。いろんな有名店がこの日のために出店しているエリアで、私も目当てにしていた場所の一つだった。


「森本さんて、パン好きなんですね。確かに、高校に来てた時、パンの袋いっぱい持ってましたもんね」


「う・・うるせえ。好きで悪いかよ。ちょうどいいんだよ、昼飯に」


「別に悪くないです。パンが好きな森本さん、可愛くて好きです」


 可愛くて好きです、という言葉が、自然と出てしまった。ちらりと森本さんを見上げると、びっくりした顔をしていて、みるみるうちに顔が赤くなっていく。


「か・・・可愛いとはなんだ! 可愛いとは。ほれ、そろそろいくぞ」


 そう言って森本さんは、残っていたコーヒーをカッと一気飲みし、席を立った。テーブルの会計レシートを取ろうとすると、再びもぬけの殻だった。


(やられた。さっき電話に立ったときに、払われちゃってたか・・・)


 変なとこスマートなんだから、とため息をつく。あとで彼が気に入ったパンをお土産に買っておいて、お返しにしようと心に決めた。


 すでに喫茶店を出たところで待機していた森本さんに追いつく。すると森本さんは、そっぽを向いて、自分の左手を私に向けて突き出した。


「ん」


「ん?」


 なんだろう「ん」って。さては割り勘のつもりだったのか。そう思って、自分の財布を出そうと、斜めがけのカバンのファスナーを開けた。


「・・だから。金はいいって、ほら、ん!」


「ん、じゃわかんないんですけど・・・」


「ああ、もう。混んでるし、はぐれたらいけねえから。手え貸せ」


 ――そう言って、森本さんは私の右手を掴んだ。少し乱暴に私の手を掴んだ森本さんの手は、途中でそっと握り直し、恋人つなぎの形になった。


(ひゃああああ)


 私はその場で飛び上がりそうになったのを、地面に根をはる自分を想像して我慢した。


 昔夫婦だったときも、こんな風に手をつないで歩くことなどなかった。今の時代は普通なのだろうが、十九の私にとっても、おばあちゃんの私にとっても、初めての経験で。体温が一気に上がるのを感じる。


 手汗はかいていないだろうか、自分の手はベトベトしていないだろうか。そんなことばかりが頭をよぎった。そして、森本さんの手は、思っていたよりずっと大きくて、ゴツゴツしていて、逞しい。自分の鼓動が、こんなにも早くなっていることが、彼に伝わらないように、必死に祈る。


「結構混んでんだなあ。すげえ人。しかし、見たことないパンだらけだ」


 いつの間にか、目当ての場所に到着していた。彼の言葉を聞いて、ようやくパンに興味がそれる。パンのエリアには、アンパンやメロンパンなど、見慣れたものもあれば、横文字のよくわからない名前の、おしゃれな菓子パンもある。天然酵母パンや、オーガニックな素材にこだわったものもあり、まるでパンの万国博覧会のよう。


「すごいですねえ。どれか気になるの、あります?」


「なんか、逆にいろいろありすぎて、わかんねえなあ・・。テキトーにいくつか買ってみて、シェアするか」


「名案です。そうしましょう」


 二人で、あーでもないこーでもないと悩んだ結果。フランス人らしきオーナーの横文字のデニッシュパンと、年配の女性の店主が売っていたオーソドックスなクリームパン、恰幅の良い中年男性の店の、パンパンに具がつまったサンドイッチを買う。駅周辺で休憩できるエリアは人でごった返しているので、マルシェの会場から少し離れた場所にある、音大の芝生エリアまで足を伸ばすことにした。


「めっちゃピクニック日和だなぁ。俺、親父がまだいた頃に、家族でしたピクニックが最後なんだよな。それから一度もする機会なくて」


 音大に続く下り道をのんびりと歩きながら、森本さんが言った。


「・・お父さん、亡くなられたんですか?」


 色々あった、とは聞いていたが。触れないほうがいいと思ってこれまで聞いたことがなかった。


「いんや、蒸発。多分浮気相手のところに行ったんだろうね。離婚届置いて出てったらしい。俺も詳しいことはわかんねえけど。・・母さん、つらそうだったし。あんま突っ込んで聞けなくて」


 芝生に座り、軽い調子でそう話しながら、森本さんは先程買っておいた牛乳と、サンドイッチのパックを私に手渡す。森本さんのお父さんが失踪したのは、まだ、森本さんが中学生、弟さんは小学生の頃。お母さんは病気がちで、お父さんの件をきっかけに本格的に体調を崩し、正社員では働けなくなったそうだ。


 食費にも困るような生活をしていたため、一時は生活保護を受けていたこともあったという。高校は公立の定時制高校に進み、昼間はアルバイトで生活費を稼ぐ。そのアルバイトで出会った今の会社から、「卒業したらウチで」という話をもらえたとのこと。


「ホントはさ、こういうとこで、ちゃんと勉強したかったんだよなぁ。高卒だとやっぱり、大卒と給与にどうしても差が出るし、キャリアの広がりの面でもいろいろ違うしよ」


 森本さんは、目の前にそびえる大学の校舎を見上げ、手に届かない夢を羨むような、切なげな眼差しを向ける。――ふと漏れ出た森本さんの本音に、言葉をかけてあげることが出来ない。森本さんの状況を考えると「いつか行けますよ」なんていう無責任な発言は出来ないし、慰めるのもなにか違うと思った。 


「あ、ごめん、湿っぽくなっちゃったな。さ、食べよ食べよ。自分語りが長くなっちゃうのが俺の悪い癖なんだよなあ」


 眉毛をハの字に曲げながら、楽しそうな、でもどこか寂しげな様子でパンの包を広げる森本さんの顔には――また「諦めの色」が見えた。


(――これ以上、この人にこんな顔をさせたくないなあ)


 今の私にできることは少ない。でもせめて、彼が私といて、幸せを感じられるように、彼のことを大事にしたい。彼のこの表情を見て、私は再び、固く拳を握りしめた。


 お腹が満たされ、しばしの小休止の後、私達はマルシェの他のエリアを見物しようと駅の方へ足を向けた。このイベントは、新百合ヶ丘駅前のデッキを中心にお店が出ていて、近隣の商店街や商業施設まで広がっている。まだまだ見るべき催しはたくさん残されていた。


 ――再びデッキに出るために駅ビルを通過しようとしたところで――苛立ちを顕にした女性の声が私達を呼び止めた。


「ちょっと武! 待ちなさいよ!」



 ヒストリックな叫び声の主は――両腕をガッチリと組み、仁王立ちでこちらをにらみつける典子さんだった。

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