第4話 記録
日記帳の冒頭の記録を読み終え、俺と母は、互いに目を見合わせた。
「お父さん……小説でも書いていたのかしら……」
「いや、でも小説だと考えると、この始めの契約書の説明がつかない。わざわざ演出のために指切るか?……彰おじさんが、昔交通事故にあったって話は聞いたことあるけど、でも、まさかそんな……」
思わぬ日記帳の内容に、俺たち二人は頭を抱えた。一体これはなんなのだろう。本当に「幸せを譲る能力」なんて存在するのだろうか。今の時点では、親父が思いつきで書き始めた、ちょっと悪趣味な小説という域を出ないように思う。
「……とりあえず、読み進めてみよう。これが何なのか判断するのはそれからだ」
黄ばんだ日記帳の次のページを、俺はそっと開いた。
次に記載があったのは、親父が会社勤めを始めたころの記録だった。
牛乳店は、時代の変化とともに需要が減少し、親父が成人する頃にはたたまざるを得なくなった。その後親父は、職を転々とした後、主に水道工事等を請け負う設備会社に就職。母はこの頃、親父と見合いで出会い、結婚した。
「この当時のお父さんはね、本当に、お調子者を絵に描いたような人で……。おまけにね、とんでもないお人好しだったのよ。お金の使い方のだらしない部下の人が居て、しょっちゅうお金貸してたり、ご飯をおごってあげたり。取引先とうっかりぼったくりバーに入っちゃって、とんでもない料金を変な男気見せて全額自分が持っちゃったり。それから……」
親父の恥ずかしい大失敗エピソードのオンパレードに、俺は天を仰いで目を覆った。なんて馬鹿だったのか。本当に大学行けるほどの学力があったのかよ、と言いたくなった。
「この頃の記録も、そのお人好しでお調子者な親父の一片が記されてる感じだな……」
芳名帳の欄には、「サラ金から金を借りてしまい、首が回らなくなった同僚を助けてやりたい」だとか「通ってるスナックのホステスさんが、たちの悪い男に付きまとわれているのをなんとかしてやりたい」などなど、もし本当に自分の幸せを譲る能力があったのだとしたら、絶対に使うべきではないレベルの譲渡先が書かれていた。
少なくとも、俺だったらこんなことで自分の幸せを他人に譲ったりしない。ただ、弟を助けたときの記録や、母の昔話から推察するに、本当に相手を心から心配して、親切心で安易に書いてしまったのだろう。
「ちなみに、この日付の記載がある辺りの親父、どうだったか覚えてる?」
母は眉間にシワを寄せて腕を組み、大昔の記憶を手繰り寄せながら、一つ一つ答えを導き出していった。
「……このときは、たしかに現場で釘踏んじゃったとか、町内会の草刈りの日に、バッサリ手をかまで切っちゃって何針も縫ったりとか、ちっちゃい事故は多かったかもねえ。それがこの芳名帳に書いたせいって言うには、どうかしらねえ……」
日記帳の初めに書かれていた、不思議な神主の言葉によると、「命を救うほどの大事であれば、それ相応の対価を必要とする」と言うことだった。それを基準とするのであれば、ちょっとした不幸を肩代わりするくらいであれば、この程度の不幸のレベルなのかもしれない。
「次の大きな幸せの譲渡って、何かあったのかしら」
芳名帳のページを数枚めくって、俺は目を見張った。――譲渡先の欄に、俺の名前が書かれていたからだ。
* * * * * *
――俺は中学生の頃、ひどいいじめに遭っていた。もともとは他のやつがターゲットになっていたのを、かばったことが発端だった。俺が飄々としているのが気に食わなかったのか、はじめは物を隠したり、無視をしたりするレベルのものだったのが、何人もに取り囲まれて暴力を振るわれたり、体操着の中に生ゴミが入れられていたり、女子生徒もいる前でパンツを降ろされたりと、どんどん過激なものになっていった。
その頃の俺は、死人のような生気のない顔で、毎日学校に通っていたのを覚えている。親父が先程のような調子だったので、母のやりくりでなんとか家計が回っているのを知っていたし、自分が不登校になるわけにはいかないと思っていた。
「……祐也、学校、大丈夫なの? そんなに真っ青な顔で毎日帰ってきて……最近口数も少ないし……」
「別に……なにもないけど」
俺は母が、俺に隠れて担任に相談に来ているのを知っていた。持ち物がビリビリに破れていることや、衣服や靴が極端に汚れていることで、母はとっくに俺がいじめられているのを知っていたのだ。だが、それでも心配を掛けたくなくて、母に弱音を吐くのは嫌だった。
「お父さん、お父さんも何か言ってあげてよ。一度学校にも顔を出して……男親が行くのと女親が行くのでは、学校の対応も違うんだから……」
当時母は、親父の煮え切らない反応に、「この人は自分の子どもが可愛くないんじゃないか」とさえ思っていたらしい。一度も学校への相談に付き添ってくれたことはなかったし、俺に対して気遣うような行動を見せることもなかった。
母にそう言われると、親父は決まって、黙ったまま家を出て、しばらく帰ってこなかった。俺もそういう親父の姿を見て、「この人は、面倒くさいことからは逃げたいタイプの人なんだろうな」と、冷めきった目で家を出ていく親父の背中を見送っていたのを覚えている。
――日記帳には、その当時の親父の心境が綴られていた。
「祐也は、立派にいじめと戦っていた。人生は苦しい。いつでも誰かが助けてくれるとは限らねえ。俺はなんとか、あいつに自分の力で乗り越えてもらいてえ。……ただ、つらそうな祐也に、俺は親としてどうやってあいつを鼓舞してやれば良いのか、わからない。本当に自分が嫌になる。学校に行くのは構わねえが、それによってあいつの首を更に締めることにもなりかねねえ。今はもう少し、様子を見ようと思う」
無意識に、日記帳を握る手に力が入る。
いじめられた子を持つ親の対応としては、正直失格だと思う。見守るだけでは何も解決しないし、苦しい思いをしていた子どもの立場としたら、やはり親父の態度が正解だと思えない。
だが、父親としての、心からの戸惑いと葛藤であるとも思った。自分が親となった今、息子がいじめられた時、自分自身、どんな対応をとるのが正解かと問われれば、明確な答えは持ち合わせていない。
実際、母が色々気を回して学校に来ることで、余計にいじめが陰湿化していたことも事実だった。
――そして次に、親父が二度目の大きな幸せの譲渡を行った記録が書かれていた。
それは俺自身も思い出したくない、辛い記憶に関わるものだった。
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