第6話 黒板の前で
「小野田、一谷、城田、友森、――解け」
数学の佐々木は、授業開始のチャイムがなって五分後に、教室に入ってくるなり、前の黒板いっぱいに問題を書き付けて、そう言った。たたきつけるように書かれた数式には、チョークの砕けた後が所々ついていた。あさきは最初、自分が指名されたことに気づかなかった。しかし、佐々木が語気を強め、もう一度同じ台詞を言ったのでわかった。立ち上がると、ふらふらと前へ出た。早愛は顔と身体をこわばらせて、ぎこちなく前に進み出た。おびえているのが傍目にもわかった。一谷は半笑いで佐田たちにめくばせすると、苦い顔で黒板に向かう。あさきは、チョークを取ると、問題に向き合った。あさきが当たったのは、今やっている単元の発展問題だった。
「もう一人、友森、友森! 早く前へ出ろ!」
佐々木は教科書を黒板にたたきつけた。紙鉄砲ほど大きく響いた。クラスの空気が張りつめる。教科書の当たった箇所の数式がこすれてうっすらとぼけた。
「はい!」
遅ればせ、友森が返事をして、小走りに黒板に向かった。友森はあさきの右にならんだ。友森の問題も、発展問題で、どうやら早愛、一谷、あさき、友森と、右に行くほど問題が難しくなっているようだった。
一谷は迷いながらも、どうにか手を動かしていた。佐田たちが最初、一谷をちゃかしていたが、佐々木が「黙れ!」と叫んだので、教室は水を打ったように静かになっていた。早愛はずっと硬直したままだった。怒りの空気に気圧されて、思いつくことはあっても、書き出すことすらおびえている、そんな様子だった。そんな早愛の後ろに佐々木がついて、自身の肩に教科書をたたきつけながら、じっと早愛の手元を見ている。
「なにも思いつかんのか」
早愛のチョークをひったくると、途中まで解いて見せた。そして早愛にチョークを押しつけると、
「はやく続きを書いて見ろ」
と、にらんだ。早愛は、それでよけいに動けなくなってしまった。もうすでに半泣きになっていた。早愛があさきの方を、思わずといった風に見た。あさきは、じっと見返した。
「わき見してないで早く解かんか!」
早愛は、あわてて黒板に向き直る。あさきは、チョークを持った腕をおろして、じっと問題を眺めていた。一谷は途中でつまってしまい、うっと息を詰めると計算式を全部消した。
「何してる!」
佐々木が怒号をとばす。一谷は萎縮したが、それを見せまいと笑って見せた。
「いや、わかんねえっす」
佐々木は笑わなかった。一谷はひるんだ。佐々木は、一谷の元へ向かうと、黒板を叩いた。
「使う公式は?」
「えっ」
「言え!」
一谷は迷った末に、教科書に書かれている公式を、上から順に、読み出した。
「違う! わからんだろう!」
「えっ?」
「わからんだろう! 宿題を解いてないからだ!」
ひときわ強く、黒板を叩いた。大きく野蛮な余韻の中、佐々木は他の生徒たちの方を向き直った。
「おまえたちは時間泥棒だ!」
佐々木は叫んだ。
「宿題をやらんからできない! いいか、この前にいるのは、留年予備軍だ! そんな奴らが回避するにはどうするか? 宿題をやることだ! しかし、できないやつほど、宿題をやらん! こいつらは宿題をしなかった! こんなバカな事があるか!」
教卓に手をついて、佐々木は皆に怒りながら語りかけた。あさきは、早愛を見て、自分の問題を見た。隣の友森は、ずっと自分の数式を見て、考え込んでいた。佐々木の声など、聞こえていないようだった。
「小野田! おまえの問題は、一番簡単な基礎問だ! お前はこんなもんができない! 宿題もせずに、できないが通じると思ってるのか!」
早愛は、今にも泣きそうだった。一刻も早く席に戻りたい、という顔をして、「はい」と小さく言って、うなだれた。
「一谷! わからないですむわけがない! 公式を頭にいれろ! そのために、何が必要かわかるか!」
「宿題をします」
「そうだ!」
一谷が半ば憮然、半ば悄然としてつぶやいた。あさきは、解かなくてもよかった。説教だってやり過ごせばよかった。しかし、何となく、「もういいや」という気持ちになった。ぶらりと下におろした腕に、持っているままだったチョークを、数式に対して向けた。
「城田! お前は態度も頭も好かん! そんな態度で社会に出てやっていけると思うな! 甘えるなっ! ここはさぼっててもいい中学とは違う!」
あさきは聞かなかった。ただ、チョークを動かした。皆無言で、あさきを見ていた。他の生徒たちの方を向いていた佐々木だけが気づかなかったが、途中で、ただあさきが自分の言葉を聞いていないことを察し、振り返った。
「城田あ!」
あさきは問題を解き終えた。チョークを置くと、そこでようやく佐々木を見返した。佐々木は顔面を怒りで紅潮させていた。
二人はしばらくにらみ合っていた。あさきはふいに顔をそらすと、自分の席に戻った。佐々木は、もう一度あさきの名前を叫んだが、あさきは頑として聞かなかった。佐々木は、怒りのやり場を探すようにあさきの解答を見ると、そこで目をむいた。
佐々木は、歯をむき出すようにして食いしばると、あさきの解答に近づいた。一谷はおしやられて、黒板に背をぶつけた。
佐々木は、やけくその体で、大きく丸をつけた。異様なほどの大きな丸だった。チョークの粉が散る。
クラス全員の緊張が、はずみで、どっとほどけた。
「こんなものですむと思うな――友森っ!」
佐々木は再度叫んだ。そがれた気勢を何とか持ち直そうとする叫びようだった。
生徒たちも、緊張し直そうとした。
「さっきから聞いてるのか! 城田もだが、だいたいお前らは自分らが宿題も出さんのに、よくしゃあしゃあと俺にノートを持ってこれたな! お前らの性根は悪い!」
友森は、まったく聞いていなかった。ずっと黒板に向き合っていた。チョークを黒板に向けたまま、ずっとぶつぶつ何か言っていた。
「友森!」
もはや絶叫だった。内田が、「ヒロト!」と名を叫んだ。そこで、ようやく友森は我に返り、まわりを見て、佐々木を見た。
「先生、すみません。問題を解いていたので」
「それが言い訳になるか! 解けてないだろう!」
クラスの数人が、笑いを漏らした。友森が、困った顔で、頭をかいた。
「はい。あの、これ、どうやって解いたらいいんでしょう?」
生徒たちはどっと笑った。もう皆、この張りつめた空気に耐えきれなかった。
「宿題をやらんからだぁ!」
佐々木は、もう金切り声だった。
「はい。その通りです」
友森は申し訳なさそうに、佐々木を見た。
「お前は授業も聞いていない!」
佐々木は疲れていた。もはや、そこに怒りの熱はなく、ただ、熱の余韻で叫んでいるにすぎなかった。友森は、反抗しているわけではなかった。声には、相手を損なってやろうとする、いっさいのとげがなかった。ただ、いっさい佐々木の怒りに圧されない。異様なほどに平静だった。それが、佐々木のストレスとなり、困惑の元となっていた。
「すみません、先生。これから気をつけます!」
友森は、誠実な声で、はっきりと言うと、きれいに頭を丁寧にさげた。友森の勝ちだった。佐々木は二の句がつげなくなっていた。ただ、空気を食う魚のように、口をぱくぱくさせた。
「座れ」
佐々木はそれを言うのが精一杯だった。
「お前ら! 座れぇ!」
圧されるように、早愛、一谷が席に戻った。友森は、きょとんとしながら尋ねた。
「僕、解いてないですけど、いいんですか」
「いいから行け!」
「ありがとうございます」
友森は、安堵した様子で、にこにこと席に戻った。生徒たちは、半笑いだった。一谷は、佐田たちに、口の形だけで「やべえ」と言い、笑った。あさきは、早愛を見た。早愛は、眉をさげて、一瞬だけあさきを見つめてきた。
佐々木は、「どうなっとるんだこのクラスは」と震える声でつぶやいた。
それから、頭を二、三度振ると、やや呆然と問題の解説を始めた。ペンの音があちこちで聞こえる中、あさきは目を閉じた。
それから、三十分後、授業終了のチャイムが鳴った。
すっかり調子を崩した佐々木は、以後、誰も叱ることなく、静かに授業を終えた。佐々木は疲れた様子で、教室から出ていった。あたりに喧噪が戻る。
「ヒロトー。お前やばいよ」
「えっ、何が?」
「いろいろと。さすがに、先生に同情する」
「そうかあ? 俺は結構いい気味。あいつ、いつもできない奴を大声でつるし上げて、意地悪すぎるんだよ」
「そうであってもさ。ヒロト、お前、テスト大丈夫だろうな。赤点なんて、広瀬に殺されちゃうよ」
「げえっ広瀬とテストのことは言うなよ。俺もやばいんだから」
「だから言うんだろ」
「ごめん、心配かけて。がんばるよ」
クラスの後ろの方で、友森達が話すのが聞こえてきた。あさきは、頬杖をついて、係の人間が黒板を消していくのを見ていた。
「一谷、やばかったね」
「うっせ」
「ドンマイ。それにしても、早愛、やばいでしょ。あんなのが解けないって」
「小学生なんじゃないの」
「もっとまじめにやれよ」
佐田たちが、早愛と一谷に声をかけていく。早愛は、引き笑いで、答えなかった。それから教科書を取りにいく、とだけ言って、教室を出ていった。
それからしばらくして。あさきのスマホがふるえた。
「佐々木しね。しねしね。皆もしね。バカのくせに、皆バカのくせに。皆しんだらいいんだ」
あさきは、画面を開くと、「うん」と返した。それから、教科書を机の引き出しに投げ込んで、教室を出た。廊下は涼しく、開け放しの窓から、風が吹きこんで、あさきの髪をゆらした。窓の枠に前向きにもたれ、腕を窓の外に出すと、あさきは画面に連投される早愛のメッセージをじっと眺めていた。
「それでも、やっぱりあさきはすごいよ。佐々木の顔、すごかったね。本当にすっとした」
ひとしきり、早愛は怒りを吐き出したあと、そうメッセージを送ってきた。あさきは、一瞬、返事をする指を止めた。しかし、たどるように指を動かして、メッセージを返した。
「早愛だって、ほんとはわかってたんでしょ」
それまで、ぽんぽんと飛んできた言葉はとぎれた。
「うん。わかってた」
十秒ほど後で、メッセージが浮かぶ。あさきは目を伏せる。
「あんな問題、わかんないわけない。わかってたけど、あんな風にされて、解けなかった」
「わかってる」とまで打って、あさきはそのメッセージを消してしまった。しばらくして、早愛から、ぽつんとメッセージが送ってこられた。
「本当に、なんでこんな目にあうんだろう」
あさきは画面を見ていた。
「あんな奴らにばかにされて、こけにされて。こんな気持ちになって。なんでこんな目に、あさきと私があわなきゃいけないんだろ?」
あさきは、目を閉じた。次にくる言葉がわかっていたからだ。
「本当に、あいつのせいだ。あいつが全部こわしたんだ。わたしたちの幸せ全部」
また、授業のチャイムが鳴った。早愛は、あわてて戻ってきた。あさきと目が合うと、笑った。泣きそうな顔だった。いったん教室に入ったが、また廊下に飛び出してきた。教科書を忘れたのだ。
あさきも教科書を取り出そうとロッカーに近づいた。自然、教科書を引っ張り出す早愛と並ぶ。
「あさき」
早愛は、小さな声で、ささやいた。
「だいすきだよ」
あさきの時が止まった。あさきが何か返す前に、早愛は教室に入って行ってしまった。
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