第9話 幸せな夏の記憶
庭にあるエゴの木の上でミンミンゼミが鳴いている。
気温は34度。照り返しがきつく、かなり暑い。
しかしセミは元気だ。鳴く声に勢いがある。
セミのひと夏の仕事は子孫を残すこと。そのために雄のセミは元気いっぱいに雌にアピールしているのだ。頑張れ。
「ミーン、ミンミンミンミン。ジー。」これを繰り返している。
ミーンという声が美音(みいん)という音にも聞こえる。
わずかに7日、どんなに長くても一カ月、地上で生きて子孫を残してその一生を終えるセミたち。でも土の中では幼虫として3年以上も過ごすらしい。土の養分を少しずつ食べてじっくり時間をかけて羽化のための準備をしているのだ。そうしてようやくと成虫になったら、あのようにして木に止まり、精一杯鳴いて雌を呼び寄せて子孫を残し一生を終える。潔い生き様に圧倒される。
だからセミの鳴き声を聞くと不思議とあたしは元気をもらえるのだ。
こうしてあたしの家に来てくれたのも、あたしになにかを告げるためなのかしら。
そんなことを考えていると、セミはこう言った。
「美音さんこんにちは。わたしはミインです。(笑)家にこもってばかりいたらからだに毒ですよ。あなたがお小さいころはなつやすみになると、虫取り網を振り回しながら元気いっぱいに私たちの祖先のセミたちを追いかけていたじゃあありませんか。美音さん、三つ子の魂百までですよ。元気だして。」そんなふうに言ってくれたような気がした。
「セミさんありがとう。あたしも随分と長く年を重ねてきたんだね。長い年月を生きてきたから少し疲れちゃって。今は休んでいるところなの。でもね、今のあたしの年齢とからだで、できることの精一杯をやっているよ。走り回ってあなたたちを追いかけまわすことはもうできないきれど。」と応えた。
セミの声に深い愛情を感じた。
「ジィー。」まるで返事をするかのようにもうひと鳴きしてミインさんは立ち去った。
こどもの頃の夏休みを思い出す。
朝の6時。小学校の校庭でラジオ体操。終えると首にぶらさげたカードに印を押してもらい、最後の日にノートか鉛筆をもらった。
家に帰り少し休んでまた起きて朝食を食べる。たいていトーストとコーンスープと目玉焼きにソーセージ。今とあまり変わらない。我が家のコーンスープは牛乳とクリームコーンに牛酪を溶かし塩で味付けしたもの。これが美味しかった。父がよく作ってくれた。
うちは料理は母よりも父のほうが得意だった。
でも、母がつくる白菜の漬物の味は覚えている。近所のお友達と一緒に大きな樽一杯につくってひと冬じゅう食べる。おやつとしてちゃぶ台に載っていたこともあった。あの味、忘れられない。あの味にかなう白菜の漬物をあたしは知らない。
母は糠漬けも上手だった。あたしにとってのおふくろの味は、だから漬物、ということになるのだろうな。また食べたいな。頼んでみよう。
夏休みの続きの話。
朝食を食べ終えると弟と一緒にテレビを観る。あの頃はテレビを観ていい時間が厳密に決められていた。いつも観ているアニメを観た。鉄人28号とか、鉄腕アトムとか、巨人の星、タイガーマスク、ゲゲゲの鬼太郎。あの時代はとにかく根性モノが流行っていた。齢がバレる。令和世代には受け入れられないだろうなあ。すぐにパワハラと言われちゃうから。
テレビを観た後は学校のプール教室に行く。あたしは休まず出席した。母が必ず観に来てくれた。生成り色の日傘をさして。
母が見ていてくれるのが嬉しくて、そして母を喜ばせたくて、あたしは泳ぎをものすごく頑張った。
プールサイドを通るたび、母は自分ではうまく泳げないのにもかかわらず私に泳ぎの指導をしてくれた。そして母の言う通りにフォームを直しながら泳いでいたら、ある日プール指導の先生に呼ばれた。
先生はこう言った。
「美音の泳ぎはフォームがとても綺麗だ。上級生にも見せてあげたいから、次のクラスまで残ってくれないか?」
わお。母の言う通りにしただけなのにすごいことになっちゃった。
それであたしは次の上級生のクラスで、クロールを披露した。
たしか小学4年生の夏だ。
その年は区の水泳大会にも出場し、背泳ぎで3位になった。やった銅メダル。
泳ぎが決して上手くはない母のアドバイスでいつしか区の大会にまで出場するようになるという快挙。
母はいつもとても熱心で一生懸命なのだ。
今思うとそれが母の愛情表現だったのだなあ。あたしと弟のすることすべてに関心を持ちながら応援してくれた。
だからあたしも弟も、自信に満ちた子供に育った。いわゆる「うちの子がいちばん」というやつ。今もそういうところがある。フフッ。
午後になると近所の友達と一緒に網をもってセミを捕まえに行った。
たまにカブトムシにも遭遇した。家に帰ってくると縁側で西瓜やトウモロコシを食べた。
夏休みの間だけは、家族4人でひとつの部屋に蚊帳を吊ってその中で川の字になって一緒に寝ることができた。これがホントに楽しかった。蚊帳はこどもにとってテントのようなもの。だから毎日キャンプ生活をしているみたいに思えた。
そして、眠りにつくまで父が本の読み聞かせをしてくれた。
よく覚えているのは「白雪姫」、「シンデレラ」、夏目漱石の「坊っちゃん」、それから芥川龍之介の「トロッコ」などだ。
父が読んでくれると不思議と物語の情景が目に浮かぶ。
「トロッコ」に出てくる少年の心細さやざわざわした気持ちがあたしの心に移ってくるかのようだった。
永遠に終わらなければいいのにと思うほどシアワセな夏休み。毎日元気だった。
セミさんが庭の木に来て鳴いてくれたから、幸せな夏の記憶が鮮やかに蘇った。
セミさんありがとう。元気出すからね。また来てね。
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