わがまま“驚異の部屋”入り娘

綾波 宗水

第1話 無垢な姫

「ごめんね、突然お願いしちゃって」

「いえいえ、今日は、予定が空いていたので」

 こういうところも抜け目なく。他のバイトと違って、塾講師はすぐに辞められないのだから、できるだけ双方にとって良い環境を維持しなければ務まらない。

 親友にはよく『有閑階級』と言い合っているが、実際のところは単純に労働意欲が低いだけの高等遊民タイプ、いや、ニート候補生かな。


 しかし僕はニートにはなるつもりはない。それは何もニート糾弾論者だからではない。各々には事情があるし、両親が許しているなら、他人がとやかく言う義理はない。

 そんな事はどうでもよくて、僕が高等遊民になれないのは、単純明快、財産がないから。昭和の漫画なら『トホホ』と吹き出し外に描かれるだろう。トホホ。

 僕には金がかかるとは言わないにせよ、趣味があるのでやはり生活費以上は稼ぐ必要がある。今は大学生という身分を用いて、実家住まいしているので、基本的には趣味と食費と交通費以外に払う義務がない。ありがとうママン、パパン?パピーか。


「じゃ、鳥羽とばちゃんの国語お願いね」

「分かりました」

 塾講師は世間ではよく『実は割に合わない』と言われている。確かにそういう面もあるが、それは社員と生徒に大きく依存する。

 社員が比較的マシで、生徒も聞き分けが良いか、もしくは賢ければ、高給バイトとして最高峰クラスだろう。

 小学5年の鳥羽未来とばみらいちゃんは、聞き分けも良く、賢いという塾講師にとって、非常に教えやすい女の子の一人。しかも小5レベルなら、僕も予習せずに始めることができる。これをして有閑階級と言わないで何と呼ぶ。


 でも複雑なお年頃なのもあって、無条件に『いい子』という訳でも…………

「あ、早乙女さおとめせんせー!」

 出会って最初にするのがハグ。外国に渡航していた経歴はないので、間違いなく彼女の性格によるもの。

「バックルを鏡代わりにしないでもらえる?」

「あのね、髪の毛ちょっと切ったの」

「え、あ、ホントだね、似合ってるよ。じゃ、テキスト出そうか」

 塾講師には厳しい制約がある。生徒と恋愛関係は当然の事、友達のように塾外で遊んだりするのも厳禁だ。それ故に学歴を含む自身の素性は隠す必要があり、SNSバレなんてもっての外だ………

「先生、つれづれぶんだーかんまーっているサイト知ってる?」

「え!?何それ!?」

「声裏がってるよ」

『徒然ヴンダーカンマー』とは、その意味深な題名とは裏腹に、内容は他とあまり変わりないサイト。ちなみに主は僕。

「ペーパークラフトの作り方とか結構載ってて、最近よく見てるんだぁー」

「そうなんだ、じゃ、始めよっか」

 クールビズに入って、ネクタイもジャケットも着用していないのに汗だらだら。いっそのこと、マナーうんぬんは無視してベストも脱ごうかな。


「あれ、香水?」

「うん、嫌だった?」

「ううん…………」

 大学生なので、せめてものオシャレとして有名な香水メーカー・アラムドロムの『武士』を買ってみたのだけど、小学生はそういや香水を『キツイ』ではなくて『臭い』と表現する節があるからな。気をつけねば。


「彼女いるの?」

 ハイ来た、この手の質問には答えてはならないというマニュアルが研修初日に手渡されていたが、マジで聞かれるとはね。

「どうかなぁ。お、いつもながら、応用問題もばっちりだね!」

「むー」

「え?」

「次はどこすればいいですか!」

「ここを………」

 年頃の女の子は塾講師的に『いい子』であっても、人間関係的にはやはり乙女。難しいね。


 ******


「ぬるいな」

 僕は電車で塾まで来ているが、途中でいつも100円の緑茶を買うのがお決まり。時にはほうじ茶だけど、夏も本番になってくると、クーラーのきいた室内であっても、帰りには飲めたものじゃない。水筒にそろそろ鞍替えしなくちゃ、熱中症で、もしかすると電車に突っ込んでお陀仏!?


「せーんせ」

「うあわああ!?」

 死ぬかと思った。黄色い点字ブロックより内側に居たから良かったけど、今の心境で背中を押されたら普通はホームから落ちるわ。

「危ないでしょ」

「えへへ」

 えへへで許されるから、この子たちに警察はいらない。

「ほらほら来たよー」

 小さな手に引かれて僕は帰宅ラッシュが落ちついた時間帯の電車へと乗り込む。スーツなのがいただけないな。普段着なら兄か親戚にでも思えるだろうが、この恰好にしてこの時間はなかなか問題ありげ。

 しかもこの時間ならいろんな意味で席に寝転んでいても問題ないほどガラガラ。なのに真横にべったりはマズいよ。

「暑い?」

「そうだね、もうちょっとそっち行ってもらえる?」

「えい」

 無邪気な少女は更に僕へと張り付く。成績の関係しないところにこそ、人は真価を問われる事をこの子はまだ知らないらしい。


「大好き」

「はははありがとうね」

「本気だもん」

「マジ?」

「マジンガー」

 わからん。

「今日の事はつれづれぶんだーかんまーに書かないでね?」

「ちょっと!?」

 疲れ切ったサラリーマンの目線が痛い。

「早乙女先生のことがすきです。私ね、真剣だからね。だからブログで炎上させないでね」

 成績がいいということは、策士であるための頭脳戦に長けているのか。


「それじゃあ、知ってると思うけどさ、先生は生身の人が好きじゃないんだ………」

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