明滅に伸ばす掌(3)
いつから眠っていたのだろうか。アヴィオールは不意に目が覚めた。寝惚けた頭で、いつも寝起きにするように、両手を頭の上に上げて伸びをしようとした。しかし、右の肘がこつんと何かに触れる。
アヴィオールは、自分が列車の中にいることを思い出した。右隣を見れば、スピカが小さく呼吸しながら眠り込んでいる。小さく開いた赤い唇へ視線が動いてしまう。それに近付くことを魅力的に感じながらも、行動に移す勇気がなくて、アヴィオールは自分自身を情けなく思った。
開けられた窓から風が吹き込み、スピカの髪を撫で上げる。鼻孔を抜けるシャンプーの香りにくらりとする。
空はすっかり真っ青に澄んでいる。発車してから、かなりの時間が経ったのだと気付かされた。どうやら寝すぎてしまったらしい。
『次は、アクィラ、アクィラ。お降りの方はお忘れ物のないようにお願いします』
マイクを通したチコの声が社内に響く。いつの間にか車内には多くの乗客で埋め尽くされていて、鮨詰めの状態だった。
「スピカ。起きて、スピカ」
アヴィオールはスピカの肩を揺らし声をかける。スピカは目をうっすらと開き、
「今どこかしら……」
呑気な彼女の問い掛けに、アヴィオールは苦笑した。
「もうアクィラに着くよ」
「え? もう?」
途端にスピカは
『間もなく、アクィラ、アクィラ。右側のドアが開きます。お忘れ物のないようお降りください』
再度、アナウンスが流れた。外を見れば既に雲の下、速度も次第に緩やかになっていく。アクィラの駅に着いたのだ。まだ列車は動いているが、この乗客の混み具合、列車が停まってから移動を始めるのでは、停車時間内に間に合わなくなる。スピカとアヴィオールは立ち上がって鞄を担ぎ、お互いに姿を見合って荷物の確認をした。
「すみません、降ります」
二人の子供は、周りの大人に声をかけながら出口へと急ぐ。その間に列車は停車し、扉が開いた。
スピカは列車からやっとの思いで出てきた。すぐに扉を振り返り、アヴィオールを待つ。少しして、やつれた顔の彼が列車から抜け出してきた。次の瞬間、発車のベルが鳴り扉が閉まる。
再び走り出した列車を、駅のホームから見送った。スピカは小さく手を振りながら。アヴィオールは乱れた服を直しながら。
「あんなに混むと思わなかったよ。出てくるだけで疲れた……」
アヴィオールはぼやく。
ふと周りを見回すと、駅構内は静かであった。スピカは時計を見る。八時五十分、遊びにも仕事にも少し早い時間帯だ。人の少なさはそれが理由だろう。
「アクィラって観光地だよね。どっかで美味しいもの食べたいなー」
「それには賛成よ。でも、まずは用事を先に済ませちゃいましょ」
スピカ達は改札口へ向かい、そこに立つ駅員に切符を見せる。駅員はハーピィだった。翼と一体になった手で切符を受け取ると、改札を抜ける二人の背中に「ありがとうございました」と声をかけた。
駅を出て、まず目に入ったのは山肌だった。鳥の自治区アクィラは、岩山をくり貫くように作られた町なのだ。その町から見下ろす
「すごいわねー。吸い込まれちゃいそう」
「ほんと。高いねー」
暫く景色を
地図上ではわからなかったが、町には強い勾配があるらしい。家々が背の順に並んだかのように、遠くの建物ほど高い位置にあった。
「観光客が増える前に行こうか」
アヴィオールの言葉にスピカは頷く。そして手を繋いで歩き出した。
観光地とあって、やはり町中には土産屋や飲食店が多く軒を連ねていた。屋台、パン屋、昔ながらの食堂、そのどれもまだ開店してはいないが、食べ物の魅力的な匂いが辺りに溢れていた。反射的に、アヴィオールの腹の虫が鳴く。朝食を取っていないスピカ達には、大通りを歩くことが辛い。チョコレート一枚では、朝食代わりになりはしない。
「後で絶対来ようね」
「ええ。絶対ね」
立ち止まりそうになる足を
急勾配の町は、二人の体力を多く削っていく。烏の賢者の家にたどり着く頃には、すっかり疲れきっていた。汗で髪がうなじにはり付く。スピカはハンカチで汗を拭き取り、髪を結び直した。
「ここが、第一の目的地だね」
アヴィオールは目の前の屋敷を見上げる。
屋敷は然程大きくない。しかし、外壁の美しい装飾と、手入れの行き届いた大きな庭は、この家の持ち主が高い地位にいることを主張していた。
「あら、可愛いお客様ですこと」
スピカ達が門の外から屋敷に見とれていると、鈴が鳴るかのような愛らしい声が聞こえてた。
次の瞬間、二人を迎えるかのように門がゆっくりと内側へ開く。金属が擦れる音を響かせながら自動で動くそれに、唖然とするスピカとアヴィオール。
「お待ちしておりました。レグルスから聞いていますのよ」
出てきたのは、若草色の縦ロールヘアをした可憐な少女。おそらくスピカより年上だろうか。
「私はクリメレ。以後お見知りおきを」
クリメレと名乗る彼女は、スピカとアヴィオールを交互に見る。スピカは我に返ると、自分の胸に手を添えた。
「私はスピカ。こちらはアヴィオール。よろしくお願いします。
あの、あなたが次期烏の賢者ですか?」
クリメレは目をしばたかせ、そして片手で小さな口を隠しながら微笑む。
「いいえ。次期賢者は、私ではなく妹ですの。いらっしゃい。妹を紹介しますわ」
クリメレは誘うように長いドレスを
見た目通りに庭は広く、
向かう先は屋敷の裏手のようだ。そのうち、自分達以外の声が聞こえ始めた。話し声ではない。叫び声に、怒号に、
「この声は?」
アヴィオールは問いかける。しかし、すぐにその答えはわかった。
屋敷の裏では、組み手が行われていた。大柄な赤髪の青年と、黄土のショートヘアをした細身の少女。二人は
突然青年が激を飛ばした。
「まだまだ弱い! 俺の頭かち割る気で来いっ!」
「ええっ!」
少女は
「おらっ!」
青年は片手で
「がははっ! まだまだだな!」
青年は
その瞬間、スピカの横で空気が動いた。緑の影は素早く青年との間合いを詰める。クリメレだ。
青年が気付いた時には遅く、クリメレの細い足から繰り出される速射砲のような蹴りは、青年の
「がふっ……」
青年は声すら出せず、腹を抱えてうずくまる。そんな彼の脳天を、クリメレは容赦なく叩いた。
「ファミラナの顔に傷をつけるなど、何を考えておりますの! 最低ですわ!」
砂埃が消えると、そこには頬に擦り傷を作った少女が足を流して座っていた。
「あ、あの、お姉ちゃん、私なら大丈夫だから」
「いいえ! いくら
青年を叱るクリメレに、悶絶する青年、クリメレを止めようとするが上手くいかない少女。
この出来事に、スピカもアヴィオールも言葉が出なかった。
クリメレは一頻り青年を
「見苦しいところをお見せしました。この子が、次期烏の賢者、妹のファミラナですわ」
ファミラナと呼ばれたショートヘアの少女は、クリメレの後ろから顔を出してスピカ達を見る。すると、思い出したように目を丸めた。
「ごめんなさい! レグルスが言ってた子達だよね。お構いできなくてごめんなさい。
ファミラナがちらりと青年を振り返る。スピカもアヴィオールも、つられて青年を見た。倒れた彼は虫の息だが、無事なのだろうか。
「あれは
「お姉ちゃん、あれなんて言ったら可哀想だよ」
青年は顔を上げて抗議しようと口を開くが、まだ腹が痛むらしく、また倒れた。
スピカは先程繰り広げられた戦闘に、いまだ困惑しているようだ。
「あの、今のは?」
問いかけると、クリメレはファミラナに目配せした。ファミラナはまごつきながらも、一歩進み出て説明を始める。
「私達、烏の家系は、鷲に仕える武道家一族なの。賢者の私は、輝術以外にも武道に精通してなきゃいけなくて」
そのための
そこへ、アサドと呼ばれた青年が、腹を押さえて近付いてくる。まだ顔は青いが、歩けるまでに回復したらしい。
「遊びに行くんだろ? さっさと着替えて来い」
「あ、うん。着替えてくる!」
ファミラナは
遊びに行くというのは、どういうことだろうか。スピカは疑問に思った。今日は鷲の賢者に会うつもりだ。レグルスはそのように伝えてくれたのではないか。
「ありがとな。ファミラナを誘ってくれて」
アサドを見上げる。彼は歯を見せ豪快で快活な笑みを浮かべる。
「あいつ、弱気なところがあるから兄貴としては心配なんだよ。レグルスが言ったのか? 観光案内にファミラナをつけるってーのは」
スピカは、口元は緩やかな弧を描いていたが、目は上手く笑えない。状況がまるで読めていなかった。
そこへ、アヴィオールが機転を利かせて発言する。
「そうなんですよー。景色と食べ物
「そーかそーか。ダチが増えるのは、ファミラナにもいいことだ! よろしく頼むぜ」
それから暫くして、ファミラナが屋敷から出てきた。先程のジャージ姿とは違い、ニットのプルオーバーとミドルスカートという、清楚な服装だ。軽くシャワーでも浴びたのか髪は濡れ、頬には
「お待たせしてごめんなさい。行きましょっか」
ファミラナはニコッと笑う。続いてクリメレを振り返ると、
「帰りがちょっと遅くなっちゃうかも……」
「気にしなくて良いのですのよ。お父様には、私から伝えておきますから」
ファミラナはその言葉に安心したのであろう。スピカとアヴィオールに目配せし、屋敷の外へと向かう。クリメレとアサドはそれを見送った。
暫く住宅地を歩く三人。やがて烏の賢者の屋敷が見えなくなると、たまらずスピカがファミラナに問い掛けた。
「あの、ファミラナさん?」
「ファミラナでいいよ」
「じゃあ……ファミラナ。私達、鷲の賢者、タラゼドさんに会いに行く予定なの。観光してる時間はないのよ?」
ファミラナは途端に目を游がせた。スピカに向き直ると両手を落ち着きなく動かしながら語る。
「ご、ごめんなさい! レグルス君がね、あの本のことをお姉ちゃん達に言うのは不味いからって、とりあえずは観光とか適当に理由を作ってくれって言われたの。嫌な思いさせてごめんなさい!」
やや早口で話すファミラナ。彼女の言葉を聞くと、スピカもアヴィオールもも納得した。アヴィオールはへらりと笑って、頭の後ろで両手を組んだ。
「なーんだ。びっくりしちゃったよ」
「ごめんなさい。説明不足で」
すっかり
「そんなに謝らないでよ。こっちまで
「ああ……ごめんなさい……」
謝るなと言われた
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私はスピカ」
「僕はアヴィオール。ファミラナ、今日はよろしくね」
ファミラナへ、スピカは右手を差し出し、アヴィオールは左手を差し出した。ファミラナは一瞬戸惑うが、すぐに顔を綻ばせ、両手を差し出して二人と握手した。
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