第92話:黒田、クロエの過去を少し思い出す

 この世界で初めてルビアと別れ、フラスティン領へ出発したのは、二週間前のこと。


 慣れない野外生活に戸惑いながらも何とか乗り切り、私は実家があるフラスティン領にたどり着いた。


 大きな外壁があるものの、少し田舎っぽい雰囲気が残る緑の街。街の中に小川が流れ、魚が住み着くほどには綺麗だった。


 予めそういう設定だと知っていた私は、本当に実在したんだ……と呆気に取られ、聖地巡礼に来たオタクみたいな気持ちでいる。


 一方、初めてきたであろうグレンは、キョロキョロと周りを見回していた。


「思っていた以上に自然豊かなところだな」


「小さな村々が集まってできたと聞いているわ。その名残が強く残っていて、街の中にも自然を取り入れているのよ」


 どうしよう。推しと聖地巡礼するなんて、ちょっとしたデートみたいな気持ちになる。


 周りに護衛の冒険者とポーラもいるから、二人きりではないのが残念だけれど。


 そして、今は街が騒がしく、とてもデートっぽい雰囲気でもない。


「向こうだけやけに人が多いな。トラブルか?」


「違うわ。夏祭りの準備をしているのよ。元々は、貧しい子供にお腹一杯食べてもらうために始めたとされるもので、フラスティン領の伝統行事なの。いろんな屋台が並んで、小さな子供たちもいっぱい……」


 あれ? どうしてこんなにも詳しいんだろうと思った瞬間、ズキッと頭に痛みが走った。


 昔から黒田の記憶が蘇るときに頭痛が発生していたのだが、今は曖昧だったクロエの記憶が蘇ってきている。


 原作の設定にないことまで知っていると思ったら、そういうことだったのね。小さな頃に一度だけ、夏祭りに参加したような記憶があるの。


 でも、どうして一度しか夏祭りに行っていないのかしら。フラスティン家が主催なら、普通は毎年参加するはず。


 まだ記憶が不十分ではっきりとわからないけれど、大切な思い出を汚したくなくて、参加していないような気がする……。


 必死に小さい頃の記憶を思い出そうとしていると、ポーラの表情が曇った。


「どうかされましたか?」


「何でもないわ。少し頭痛がしただけよ」


 ポーラに心配かけるわけにもいかないし、深く考えるのはやめよう。また何かの拍子に思い出すだろう。


「最近は落ち着いていましたが、クロエお嬢様は重度の頭痛持ちです。長旅の疲れが出て、再発してしまったのでしょう」


「……そうかもしれないわね。屋敷に行きましょう」


 黒田が転生した話はできないので、とりあえず話を合わせることにした。


 そのまま実家まで帰ってくると、公爵家ということもあり、とても大きな屋敷に到着する。


 冒険者に礼を伝え、まだ正式な騎士になっていないグレンの部屋をお願いした後、私は自室に向かった。


 屋敷内の雰囲気が、どこか懐かしい。すれ違うメイドたちも見たことがある顔で、何とも不思議な気持ちになる。


 しかし、そんな感傷に浸るのも束の間、自室にやってくると、長旅の疲れを取るためにベッドへダイブした。


 バフッ


「寝袋生活、しんど……」


 クロエムーブから黒田モードに切り替わった私は、一気に三十歳くらい老けた顔をしているだろう。


 いつどこで誰に見られているかわからないので、常に背筋を伸ばし、貴族らしさを大切にして過ごした。


 それがルビアとの約束なのだから。


 原作でもそうだったけれど、学園生活でルビアが一番成長するのよね。貴族に対する意識までしっかり持つようになって、姉としては誇らしいわ。


 私がしっかりしないと、クロエの立場がなくなりそうだもの。


 でも、ここにはルビアがいないんだし、今日くらいはのんびりしたい……。


 しかし、私の安息を妨げるようにコンコンッとノックされた。


 部屋に入ってきたのは、ポーラだ。


「クロエお嬢様、随分とお疲れですね……。本当に頭痛は大丈夫ですか?」


「えっ? あぁ、大丈夫よ。少し疲れただけだから」


「ですが、その、とてもクロエお嬢様らしくない態勢で休まれているかと」


 ベッドに飛び込んだ私は、首だけポーラの方に向けているが、うつ伏せで大の字である。


 黒田としては、前世でずっとベッド生活をしてきたので、寝袋生活がかなり堪えていた。ここまで来るのに三回寝違えたし、朝起きたときに腰痛に悩まされるという日々を送っていたのだ。


 だから、ベッドが恋しい。ポーラに見られたとしても、ふわふわベッドに身を預けた私は態勢を変える気力もなかった。


 予め帰ると連絡していたから、ベッドも手入れされていて、本当に助かる。


「私のことより、グレンの心配をしてあげてほしいの。周りに誰も知り合いがいないし、初めての場所で一人は可哀想だわ」


 フラスティン家の騎士になるのなら、さすがにグレンだけを特別扱いすることはできない。実家というのは、周りの目が優しくもあり、厳しくもある場所なのだから。


「かしこまりました。旦那様との話し合いが進むまでは、客間で待機するとのことです」


「この時期は夏祭りの準備で、お父様も忙しそうね。もう少し帰省の時期をズラした方がよかったかしら」


「いえ、それはルビアお嬢様の作戦で……いえ、何でもありません。旦那様は二日後に手が空く予定です」


「いま、ルビアの作戦って言わなかった?」


「そうでしょうか。ルビアお嬢様の名前は出していないので、かなり疲労困憊しているみたいですね」


 そんなこと言いましたか? と言わんばかりに、ポーラは首を傾げている。


 私の専属メイドであるポーラが嘘をつくはずもないし、自分で思っている以上に疲れているのかもしれない。久しぶりのクロエムーブの影響が出たのだろうか。


「ポーラにそう言われると、とても疲れているような気がしてきたわ」


「何か甘いものをお持ちしますので、それを食べてゆっくりお休みください」


「お願いね」


 一瞬で気力だけが回復する私は、ノソノソとベッドから起き上がった。早く甘いものが来ないかな♪ と、ルンルン気分になるのだった。

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