耳を澄ませば青色の
八月中旬。金曜日。
期末テストも無事終わり、夏休み中の集中講義と、自動車免許の教習所、それと気が向いた時だけ行くバイト以外、何もない毎日が過ぎていっていた。
人生で一番怠惰になりそうな予感しかしない、この二か月の始まり。
大学の図書室で夏季集中講義のレポートをしていると、スマホがバイブで着信を告げた。
見ると千風ちゃんからで、今日は帰りが遅くなるというラインだった。
たまにある。千風ちゃんが遅く帰る日。
夕食を作らなくていいのは楽だけど、夕食を作りながら千風ちゃんが帰ってくるのを待っている時間も嫌いじゃない。
さあ、じゃあどうしようかな。リホと飯でも行くか。
それにしても、前期の試験、楽勝だったな。ゼミと過去問のおかげでテスト対策はばっちりだったし、ゼミの連中も、聞いてもいないのに分からない問題教えてくれるし、出席率は代返ちゃんのおかげで100%だ。
オレは叔父を思い出す。万太郎おじさん。大学、マジ楽勝です。お礼に今度酒持って遊びに行くね。
※
横浜中華街の雑踏は、夏休みのせいで余計に外人の観光客とお上りさんでいっぱいだった。
中華街に来るとわりと行く店に入って、仕事帰りのリホと飯を食う。
「もうちょっとすると、この街も甘栗の匂いでいっぱいになるね」
「え? 今日も売ってたじゃない?」
「あれは去年の栗。栗の旬は秋だよ。この時期買っちゃダメだからね」
「なるほど。て言うかこれ。私、中華の赤いチャーシュー好きじゃないんだけど」
「そう? 香りがいいじゃん。チャーハンに入ってると風味変わるし」
「味も無理。双葉食べていいよ」
押しつけられた小皿のチャーシューを食いながら、オレはビールを飲む。
中華。好きなんだけど、合わせるお酒にワインがないからビール。そこが残念なところだ。
「そういえばさ、ジュンペイどうなったの? 例のライブチャットの」
「ああ。なんか最近仲良くしてるみたいだよ。週末の付き合いの悪いことよ」
「ははっ。しょせんは男も女も、男と女だね」
「変な言い回しだね、それ」オレは笑って、リホが細い目を細めて点心を頬張るのを見つめる。
「抱いた?」
「うん。抱いたら、いい子なんだって分かった」
「でしょ? そういうものだよ」
「リホはさ、そういうの気にしないよね」
「そっちもね。上司とのベッドは営業だよ。うちの部署でボーナス一番多いの私なんだからね」
「オレには?」
「半分作業で、半分は愛情」
「半分あるだけいいか」
「そゆこと」
※
時刻は夜中の二時を過ぎた。
あのあと、横浜市内のリホのマンションに寄って、終電ちょい前くらいに戻って来て、シャワーを浴びてラムネを飲む。
消音にしたテレビが、下らない深夜のバラエティ番組を映す。
オレが夏休みだからって言っても、リホも千風ちゃんも仕事だし、純平もきっと、このまま上手くいけば国島と会いたいだろうし。
バイトもゲームも、下らないからしたくない。
オレのしたいことって、逆に何だろうな?
そんなことを考えていると、玄関の鍵が鳴って、下駄箱に明かりがついた。
そのまま物音がリビングまで這ってきて、部屋の電気がつく。
「ルーモス、光よ! あれ、双葉? 起きてた?」
「何バカ言ってんの。オレもちょっと前に帰ってきた。おかえり」
「ただいまあ。私もうお風呂は明日にする。寝る。おやすみいー」
千風ちゃんが洗面所に向かう。
オレは思う。
今まで、誰と、どこで、何をしていたんだろう。
寝むれそうにないから、オレは冷蔵庫から白ワインを取り出した。
※
翌朝。
「おっきろー、双葉っ子。飯だー、飯だー」
「おはよう。女の子が飯だって言うな」
「ご飯だよー、ご飯だよー」
「もう遅いよ」
あー、眠い。朝から元気過ぎんだろ。
リビングのテーブルには、イタリアンっぽい総菜が並んでいる。エビとアボカドのサラダ。チーズをまぶしたニョッキ。トリッパのフリット。デザートにティラミスまである。
「どうしたの? 土曜の朝まではオレが家事なのに」
「昨日行った店で分けてもらったの。そこ土日は休みで、捨てるのもったいないから金曜の夜はそうやって余り物配るのよ」
「ふうん。昨日遅かった原因はそれか」
「そうなの。たまには双葉に楽して欲しかったし。さあ、食え!」
「言い方ね」
うん。美味い。寝ぼけていた頭がクリアになるくらい、しっかりとした美味さのある料理たち。なんか不思議な感じだ。目が覚めて、休日の朝の一発目に店の味の朝食。
たまにはこういうのも、悪くないな。
「昨日飲んでたの?」
「そうだよ、久しぶりに上司と飲んでて。双葉は?」
「カノジョと中華街行った。肉まん冷蔵庫に入ってるから、昼はそれ食おう」
「なあんだ。あれそうだったんだ。双葉も同じこと考えてたんだね」
「まあね。上司って男?」
「うん。会議遅くなりそうだったから、どうせなら食べて帰ろうって」
「ふーん。オレの知らないちかちゃんがいるんだね。好きな人ってそいつ?」
そう聞くと、千風ちゃんは笑ってコーヒーに口をつける。
「あのね、仕事終わりに同僚とご飯なんてのは日常なの。いちいち男女気にしてたらやってけないのよ」
「あ、そう。でも相手はそう思ってないかも」
「ふふっ。あんたは大人なフリしてるけど、やっぱりまだまだお子ちゃまね」
洗濯機の回る音がしている。
千風ちゃんはテレビ前のソファに横になって、文庫本を読んでいる。
オレはダイニングテーブルにノートパソコンを持ってきてレジュメを見ている。
このくそ暑い真夏の昼下がりに勉強。電気代がもったいないからって理由で、リビングのエアコンだけつけて、オレも千風ちゃんも同じ部屋でだらだらしていた。
「オレ今免許とってるじゃん。合格したら、ちかちゃんの誕生日にどっかいく?」オレは千風ちゃんに声をかける。
「例えば?」
「那須とかどう?」
「却下。遠い」
「じゃあ伊豆とか」
「却下。暑い」
「暑いのはどこも大差ないでしょ」
「北極に行きたい」
「ナメてんのか」
「どこか行きたいならカノジョさんと行けばいいじゃない」
「リホとはリホでどっか行くよ。オレはちかちゃんともどっか行きたいの」
「南極」
「ちかちゃんサムーい」
「ビアガーデンとかならいいよ」
「ビール飲みたいだけでしょ」
二人で生活を始めて、もう五か月弱。オレたちの緩いやり取りはまるで倦怠期のカップルだ。
洗濯機が止まって、千風ちゃんは文庫本を閉じ、ベランダに出ようとする。
オレは彼女の手から洗濯籠を掴んで、一緒にベランダに出る。
「あんたは勉強してなさい」
「息抜きがてら、ちょっと休憩。二人の方が早いでしょ」
有無を言わさずにそう言って、オレはシャツの袖をまくる。
「旅行ね。行きたくない訳じゃないけど」
「休みとるの難しい?」
「うーん。とれるって言えばとれるけど、有給っていうのは最後の手段なのよね。悪いけど、気持ちだけもらっとくわ」
「あ、そう」
「がっかりした?」
「別に。じゃあその分プレゼントは奮発するから」
「そんなの別にいいのに。今のうちに貯めておきなさい」
「なんか冷たくない? 別にバイトって言っても大した事してないよ。笑顔作ってるだけだし」
俺がそう言うと、千風ちゃんはオレのTシャツを手のひらでパンパン叩いて、こう言った。
「あんたは勤労の義務を甘く見ている。日本国憲法の三大義務を言ってみなさい」
「教育の義務、勤労の義務、納税の義務」
「そう! あんたはその全部の義務を放棄しているのよ! 勉強して働いて納税して、やっと国民は日本国民になれるのよ。覚えときなさい!」
「一つ言ってもいい?」
「何よ」
「教育の義務は、子どもに教育を受けさせる義務なんだよね。勉強する義務じゃないの。分かる?」
「え、そうなの?」
「そ。基本だよ、おばさん」
「ぐぬぬ」
「まあいいや。プレゼントは絶対奮発するから誕生日は俺と夕食、拒否権ないよ、オッケー?」
「お、オッケーです……」
悔しそうな千風ちゃんが夏の空を仰いだ。
はははっ。ほんと、どんだけ可愛いの、きみは。
※
銀座のスポーツジム。
夏休みとは言え、平日の昼間からジムに来てるやつら、仕事何してんの、と思う。
大学の期末試験が終わってから再開したバイトだったが、オレは物欲がないから、ここで余分に稼いでおけば、あと半年はバイトしないで済む。最近になって久々に出勤しだしたオレは使える男で、バイトの上司もオレを辞めさせたくても辞めさせられない状況。
しかし、バイトってだからイヤだ。
店員だから、無視もできない。話しかけてくるのはほとんどが女性の利用客。なんならバイトの同僚の女ですら、先輩面でオレにかまう。あとは「何様」な態度のオヤジとか。
でもまあ、やることは簡単だ。
器具の清掃とか、初めての人に使い方を教えたりとか。店はオレを表に出しておきたいらしいから、メインの仕事は常勤のスタッフがほとんどやる。はっきり言ってオレがやるのは営業スマイルだけだ。顔と肉体で採用されたんだろうなと思う。
世間話も仕事の一環だって言ってたけど、ほとんどの客は自分のことを喋りたいだけだから、お得意の相槌でどうにでもなる。大人は寂しいな。
頷いて、相槌打って、たまに笑顔。
苦痛だ。
オレ、絶対、アイドルとか向いてないな。
オレが苦手なのは、毎日同じことをすること。忍耐力自体はある。これでも元体育会系部活出身だし。でも、ムダなこと、ルーティーン、大げさに言うなら、昨日と同じ今日、そういうのが苦手だ。
卒業して、会社で四十年。いっそ殺してくれって思う。
同じ顔見て、同じことして、勤労の義務は伊達じゃないな。
※
「リホはさ、プレゼントもらえるってなったら、何欲しい?」
「え、何その質問、怖いんだけど」
バイトの翌日、リホの部屋で朝から二人でワインを飲みながら、思い出したように聞くとリホはドン引きだった。
「いやさ、女って何が欲しいのかっていう一般的なリサーチなんだけど」
「よかった。ペット感覚で付き合ってた男についに惚れられたのかと思って焦ったよ。相手は?」
「例の叔母」
「ああ、チカゼちゃんね。なるほど、それは確かに難しいよね、身内の女へのプレゼントって」
「うん。普通だったらアクセサリとか香水で済むけど、まさかバラ一輪って訳にもいかないしね」
「え、悪くないよ、それ」
そう言ってリホはにやりと口を笑わせる。
ベッドに並んで座って、低いテーブルにはワイングラスとチーズやサラミなんかが雑然と並んでいる。リホはキャミソール姿で片膝立てて赤ワインを含み、俺の答えを待っている。
「マジで言ってる? からかってんの?」
オレはからかわれているのかマジなのか分からなくて聞き返す。
「違うって。アラフォーなんでしょ、チカゼちゃん。その年くらいの独身女ってさ、欲しい物はある程度自分で買えちゃうのよね。なにもらっても嬉しい、ってのは普通すぎる答えだけどさ。花束にメッセージカードとか、ベタだけど嬉しいもんだよ」
「なんだかなあ」
「じゃあさ、例えば彼女の趣味の物プレゼントとか」
「千風ちゃんの趣味って、ウィンドウショッピングと読書なんだよね。あとはカラオケとか」
「じゃあおススメの歌手とか作家の物をあげればいいじゃん」
「うーん」
そうじゃないんだよな。なんかもっと、思い出になるような品が送りたいんだけどな。
俺が悩んでいると、リホはオレの二の腕の皮をつまんでこう言った。
「双葉は大好きなんだね、チカゼちゃんの事」
「…………」
「私の誕生日には、タバコかコンドームをカートンで頼む」
そう言ってリホはタバコに火を点けた。
紫煙が上がって、昼前の日差しがもうもうとした部屋を照らす。
「換気しない?」
「勝手にしたら」
リホに背を向けて窓を開け、そのままベランダに向かってオレも煙を吐く。窓開けたくらいじゃ意味ないくらいヤニ臭い部屋の中で、気が付くと鼻をすする音がした。
リホだった。
うつむいたまま、肩をわずかに震わせ、何もない部屋の隅を見ている。
「ごめん。オレ、ちゃんとリホのこと好きだよ」
そう言うと、振り返ったリホのまぶたが震えた。目尻には、薄い涙。
「都合が、いいからだろ……」
「声震えてるよ」
「そうだね。震えてるね、私。でもきみは、私に震えたことなんてないだろ」
「メイビーノー」
「『たぶん』でも、否定してくれて良かったよ。でも」
「なに?」
「きみは、チカゼちゃん以外、誰のことも好きじゃないんだね」
「そうじゃないよ。例えばリホが……」
そう言った瞬間、リホの目尻がつり上がった。
「例えばじゃねーよ! 例えももしもも関係ねーんだよっ! きみの心のバリアは『きみ』が外さないと、誰にも外せないんだよっ! 私をっ! つまんない女にするなっ! カレシの前で泣いてわめいて、そんな女にするな! クールでいいよ、スカしてていいよ。私はそういう男が好きだよ。だけどっ!! きみはきみの心を、もっと大事にしなきゃ、イヤだ……」
リホの激情を、初めて見た。付き合ってもうすぐ半年ってくらい経って、初めて。
リホは打てば響く、演劇の舞台のアドリブのように、同じ波長でいられる「誰か」だと思っていた。
オレより少し年上で、クールでスカしてるように見える、本当はただの女の子なんだって。
※
千風ちゃんがキッチンに立って鴨肉用のソースの味を見ている。
「なんか甘い」
「ネットのレシピ通りの分量でやったんでしょ? それで甘いなら元が甘かったんだよ」
「こんな甘いのはダメ! 双葉っ子のカノジョさんにこんなの出せない。作り直すっ!」
「もともと料理得意じゃないでしょ。背伸びしなくていいよ」
「大人は背伸びしてやっと大人なのよ。大人の子どもさ加減ナメるんじゃないわよ!」
「意味わかんないんだけど」
「いいの。ほっといて」
「ちかちゃん舌は良いんだから、そのソースに足りないものくらい分かるんじゃないの?」
「酸味」
「ほら、わかるじゃん」
「でもどうしたらいいか分かんないの」
「勝手にしなよ、もう。オレ今からリホ迎えに行くから」
「え、もうっ?」
「気付いてないかもだけど、時間とは流れていくものなのだよ。食材買っていつもより遅く帰って、そこから一時間キッチンで格闘してたんだよ、ちかちゃん。そりゃリホも仕事終わるわ」
「お願い、できるだけ引き延ばして帰って来て」
「国会か」
オレはスマホをつかんで玄関を出る。
※
「へえ、鴨肉」
「ソース美味しいって言ってあげてね」
「分かった。もう一本いい?」
「ここ来てそれで三本目だけどね。まあいいよ」
マンション下の、いつものファミマ。
引き延ばすまでもなく、リホはリホだったな。
街は夜だ。
うちのマンションは表通りに面していないから、車の流れも少ない。遠くの車の音を聞きながら、仕方なくオレも煙草を咥える。
「双葉さん」
「あ?」
「いや。予行練習」リホが煙を吐き出して笑う。
「手土産とか、良かったのかな? 鴨肉で歓迎されるとは思ってなかったから」
「いいよ。安い菓子買って来られても食べないし」
「贅沢者」
「正直者、って言って欲しいな」
「双葉はさ」
「ん?」
「いや、いいよ。っし。さ、行こう」
二人してエレベーターに乗り、部屋の前へ。ピンポーン。一応、チャイムを鳴らす。
「こんばんわー」
満面の笑顔の千風ちゃんが出てきてオレたちを照らす。こんな顔、その辺の男が見たら見惚れてしまうだろうな。
「こんばんは。急に伺ってすみません。安藤理穂です」
おお、リホが千風ちゃんのビームに気圧されている。
「叔母の柴山千風です。リホちゃん、あ、リホちゃんって呼ぶね。入って入って」
「お邪魔します」
開始早々、主導権決まったな、こりゃ。さすが千風ちゃん。
部屋に入り、冷房が肌に心地よい。オレは卓に座り、リホも横に並ぶ。なんとか間に合ったようで、目の前にはサラダ、スープ、その他の料理が並ぶ。ワインクーラーには父さんの秘蔵のランブルスコ。千風ちゃん、勝手に出してきたな。
「ちかちゃん。まず一旦座ったら」
「あ、そうよね。あちっ、あちっ」
「何してんの。オレやるからもう座りな」
「オーブンの、鴨肉を、頼む……」
「武士の口上か」
リホ、くすりとも笑わず。こっちはこっちでさすがだな。
肉を出して、味見もしないままカットしてソースをかけて、オレもテーブルに戻る。
「じゃあ仕切り直し。今日は来てくれてありがとう。双葉っ子のカノジョさんなんて初めてだから、おばさん張り切っちゃった。さあ召し上がれ」
「あざす」
お、リホ、よそ行きやめたな。まあいいけど。
「ど、どう?」千風ちゃんが不安気に鴨肉を口に運ぶリホを見つめる。
「ソース甘いですね」
あぁ、それ禁句なのにな、もう遅いか……。
「でも美味しい」
「そ、そっか。良かった! いっぱい食べてね」
「サラダも、爽やか。チカゼさん、料理上手なんですね」
「違うの。全部ネットのレシピ。平日の食事はいっつも双葉の担当なの」
「へえ。双葉さんの料理、食べたことないな」
「オレ、基本的に炒め物とスープしか作らないよ」
「でも美味しいの。憎ったらしいわよね。何でもそつなくこなしてすまし顔のおちょぼ口。誰に似たんだか」
「双葉さんは普段から憎たらしいですよ」
「そこで共通の敵作るのやめてくれない?」
「でも可愛いの」千風ちゃん言う。
「そうですね。自分勝手な猫みたいに」
「リホちゃん。夕食終わったら双葉っ子の昔のアルバム見る?」
「見たいな、それ」
ああ、もう。勝手にしろよ。
※
夕食も終わって、テーブルにはワインとビールとチーズ、そしてオレのアルバムが並んでいる。
「これが七五三の時。ね、この頃からもうおちょぼ口なのよ」
「こうやってみると、もう双葉さんっぽいとこ出てますね」
「そうなの。天使だったの。そんでおちょぼ口」
「何回言うの、それ」
オレはランブルスコの残りを飲みながら早くもげんなりだ。父さん、マジゴメンって心の中で謝る。
ページが進み、幼稚園の頃、小学校と続く。
「双葉さんの両親、初めて見たな。双葉さんってお母さん似?」
「そうだね。ケンさん、双葉っ子のお父さんは男くさい顔してるし。でもお口はお父さん似なのよね」
「なんで今日、オレの口がフィーチャーされてんの?」
「あ、で、これが若かりし頃の私」
写真には、桜の散る中、風の中で微笑む千風ちゃんと、手を繋がれたオレが写っている。これは、春休みの頃か。
「双葉はこの時7才くらいかな。初めて二人で遠出した時のやつ」
「ここどこですか?」
「日光。おサルさんが怖いって泣くはわめくは。子どもってこんな風なんだって、初めて知ったなあ。まずはとにかく、甘えっ子でさ。ちかちゃんちかちゃんって、ちょっと傍にいないだけでピヨピヨ泣くのよ。そのくせ、無駄に強気」
「今の双葉さん見てると想像しにくいな」
「普通の、どこにでもいる男の子だったよ。リホちゃん兄弟は?」
「私、一人っ子で」
「そうなんだ」
なんだ、千風ちゃんとリホ、結構いい感じじゃんと思う。
心から仲良く談笑って訳にはいかないけど、初めて会ってこんくらいの会話なら悪くないと思う。
それは千風ちゃんの人柄なのか、お互いが社会人だからなのか知らないけど、こうだったならもっと早く紹介すれば良かったかな。
おまけにインドアの象徴みたいなリホと、社交性の塊みたいな千風ちゃんはお互いに自分にない部分に興味があるらしくて話題は尽きない。
「チカゼさん、きっとモテますよね」
リホが言って、俺はさり気なく聞き耳を立てる。
「若い頃は、まあそれなりに。でも今はもうダメ。ダメダメよ。盛り上がれるおばさん、みたいなイメージ着いちゃって。私も年上が好きなんだけどね、なんかもうバカな部下としか思われてない」
「そんな事ないと思うけど。チカゼさんの好きな人って上司?」
「うーん。昔の話だけど、尊敬してて、可愛がってくれて、でももう今さら恋愛って感じでもなくて。今は双葉が懐いてくれてるから、もうそれでいいかなって」
「うらやましいな」
「え、なにが?」
リホが呟いた言葉に、千風ちゃんはあっけらかんとした感じで尋ね返し、不思議そうな顔をする。
「無防備な双葉さんを見られるチカゼさんが」
「…………」
なんか、雲行き悪くなってきたな。
前に、リホが始めて泣いて怒鳴ったあの日を思い出す。
きみの心のバリアは「きみ」が外さないと、誰にも外せないんだよっ!
そう言って泣いたリホ。
オレは、リホにがっかりしたくない。
普通の、その辺にいるカップルになって、痴話げんかしたり休みの日に日用品の買い出しがデート替わりだったり、そんな事したくない。
「双葉さんは、母性というか、強い愛情を欲しがってるって感じる時がある。でもそれは、だれにも満たせないんじゃないかって、そう思う」
リホの言葉に千風ちゃんが答える。
「それはね、きっとリホちゃんに相当気を許してる証拠だよ」
リホは唇に当てていた指を離し、千風ちゃんに向き直る。
「だといいけど。特に女性の、自分に向けられた恋愛感情を見た時の双葉さん、私ですら怖いって思う」
「リホ」
少し強い声でリホをたしなめる。
「そうなの、双葉?」千風ちゃんがオレを見つめる。
「大した話じゃない。ちかちゃんだって、タイプじゃない男が自分を意識してたら鬱陶しいでしょ。それとおんなじ」
「でも双葉は私にでもそうだよね」
ここにきて初めて、リホがオレのことを双葉と呼んだ。
嫌な沈黙が部屋に満ちる。
リホは、オレのラインを知っている。
何をすればオレが嫌がって、何をすればオレが喜ぶのかを知っている。
大人の女には、それがある。
リホは女がって言ったけど、オレが嫌いなのはガキみたいな女だ。
「やめよう、この話」
「双葉。リホちゃんが好きなら逃げないで」千風ちゃんが言う。
「逃げてない」
逃げてるんじゃない。嫌なんだ。女の恋愛感情が。受け身で、策を弄して、付き合えばワガママで。あいつらが好きなのはオレの顔で、オレの声で、オレの身体だ。
たまに冗談を言えば、笑いながらオレとのセックスを意識する、腐った性。
別にゲイじゃない。だけど。女という生き物は、どこまで行っても愚かだとオレは知っている。
リホは良い線いってる。でも正解じゃない。
何の掛値もなく愛してくれる誰か。それを、錯覚して信じてしまう誰か。
オレにはそれが、千風ちゃんだ。
千風ちゃんは叔母だ。そういう意味で、オレは歪んでいると思う。
でも。
他の女の愛情はいつも。
ウソに見える。
この世に本当に愛情がないのなら、オレも諦められたと思う。
でも、知ってしまったんだ。
千風ちゃんの愛情を。
一生叶わなくていい。
けれど一生傍にいて欲しい。
「双葉」
「ん?」
オレはリホに目を向ける。
「愛情に理由があったらいけないの?」
「え?」
「私は双葉が好きだ。見た目が好きだ。前も言ったけど、スカしてるとこも、何考えてるのか分からないとこも、好きなんだ。言葉にできるってことは、理屈で説明がつくってことだろ? 説明がついたら、何がいけないの? 無限の愛情? バカでしょ、私と双葉は出会ってまだ半年も経っていないんだよ。私がきみに無限の愛情感じてたら、きみは信じる?」
「信じないと思う」
「その通りだよ。きっかけはいつだって道端の石ころだ。そこから重ねていってぼんやり見えた道筋の向こうに愛があるんだよ。私はきみを愛してる。言葉にして伝え合うから愛は愛になるんだよ。知らなかった?」
リホが、今、オレに愛してるって言ったのか? 不思議な感覚だ。夜に見る夢の中で寝ているような、何が現実か分からなくなる、この、オレの、良くわからない気持ち。
今まで、叶う恋を、してこなかった。
好きじゃないけど、嫌いじゃないから付き合って。別れる時は、次のカノジョを作るのが面倒だな、と考えるくらいにドライだったオレの恋愛。
リホのこと、嫌いじゃない。
そして嫌いじゃない以上の何かが、最近芽生えだしてる。
愛着だと思っていた。
でも愛してると言われて、揺れるような、この感覚。
オレの胸に今あるこの感覚って、愛なのかな? 分かんねーよ。分からないけどオレの心は今、スカした顔で笑ってオレを見つめる彼女の笑顔が、心地良いと感じている。
「今、理屈としては理解できた」
これじゃあまるで、ただのバカだ。
「ひねくれ者の、恋愛初心者だな、きみは」
そう言って、リホが笑う。
「質問してもいい?」
「なに?」
「今きみの中で、好きで好きでたまらない気持ちってある? オレは、それが愛だと思っていた」
リホは鼻で笑って、こう続けた。
「そう感じる時もある。そうじゃない時も、突き放しきれない。求めて求めて、愛情が爆発するのなんて、思春期とドラマの中だけだ。少なくとも、手も繋げない、心と心のつながりを信じているあの懐かしい日々よりも、現在進行形で胸をもどかしくさせるきみへの想いの方が、私にはリアルだよ」
愛情って、何が愛情なのか分からない。
愛情に悩むこと自体が恐らく青臭いのだろう。
耳を澄ませば聞こえてくるような、青色のこの気持ち。
でもさ。リホ。
目の前で笑うきみの笑顔より、目を閉じれば浮かぶきみの笑顔より、オレはきっと、千風ちゃんが好きだ。
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