第81話



「お、お待ちください! 私の妻を何卒お許しくださいませ!!」


「あ、あなた!」



 そこに現れたのは、女性の妻である男性だった。愛する妻を助けるため、未だ女性の胸を揉み続ける不届き者の貴族に頭を下げ懇願する。



(待てよ。確か、あの漫画では女を助けようとした男は……ま、まずいぞ)



 前世で読んだ漫画では、助けに入ろうとした恋人の男性が銃で殺されてしまう結末だったことをこのタイミングで秋雨は思い出す。そして、悪い予感ほど当たってしまうのが道理なわけで……。



「下民がこのわちしに話しかけてくるなえ!!」



 そう言いながら、腰に下げていた杖を男性に向け魔力を込め始める。その魔力に呼応して杖の先に炎の玉が出現し、まるで銃の弾丸のように男性めがけて放たれた。



(ちぃ、やっぱそうなったか。仕方がない。【魔法反射(リフレクション)】!!)



 このままでは男性が殺されてしまうと感じた秋雨は、即座に相手の魔法を反射させる結界を男性の周りに展開させる。それとほぼ同時に、自身の姿を光学迷彩で周囲の風景に溶け込ませ、誰が魔法を使ったかわからないようにした。



 結界に阻まれた魔法はそれを放った相手に跳ね返っていくが、貴族の男が持つ魔道具の一つが発動し、その魔法に対する防御結界が展開し、男にダメージを与えることはできなかった。しかし、貴族の男がノーダメージというわけにはいかなかった。



「ヴォゲァア」


「か、閣下ぁー!!」



 貴族だから魔法を無効化する手段の一つや二つ護身の術として持っていると予想した秋雨は、男の放った魔法が反射する瞬間、炎の玉の内部にこぶし大の岩を生成した。そして、その玉は魔力で作られた炎の玉は無効化できたが、物理的な攻撃を無力化する結界との同時展開はできなかったようで、炎の玉の内部に忍ばせた岩のみが結界を貫通し、男の顔面に直撃したのである。



 秋雨の恨みの籠った一撃は、確実に貴族の男にダメージを与え、その無駄についた贅肉によってかさ増しされた彼の重たい体を宙へと舞い上がらせた。



 突然起こった出来事に周囲の人間が騒然とする中、主を傷つけられた従者の声が響き渡った。



「主にこのような狼藉を働く者は誰だ!? 名乗り出ろ!!」



 沈黙……その言葉を受けて返ってきたのは、誰一人として言葉を発しない状況であった。



 そのあまりに音のない状況に、普段聞こえてこないはずの“ぴゅう”という風の音すら耳に入るほどだ。



 当然、その犯人である秋雨が素直に名乗り出るはずもなく、姿を消したまま成り行きを見守っている。



 その隙をついて件の女性と男性はその場をあとにしており、これで彼女の安全が確保された。



(それにしても、あのおっぱい……なかなかの戦闘力を持っていたな。あれを好き放題できるとは、なかなかに羨ましいぃー!)



 貴族をぶちのめしたことなど意に返さず、秋雨の頭にあるのは当事者の女性である胸のことであった。確かに、貴族の男が目をつけるほど女性の容姿は優れており、特に服の上からでも大きいことがわかる二つの膨らみは素晴らしいの一言に尽きる。



 貴族の男でなくとも彼女とよろしくやりたいと思う男性は多く、彼女を射止めた男性を羨む人間は決して少なくはなかった。



 そんなどうでもいいことを考えていると、貴族の男が復活したようで、今度は自分に攻撃した人間を探し始めていた。



「誰だえ!? このわちしを攻撃した不届き者は!! 今すぐ出てくるだえ!!!」



 醜くも唾を飛ばしながら叫ぶ姿は、ファンタジーで登場するモンスター……オークと見間違うほどだ。だが、それを指摘する者はこの場にはいない。



 相手が爵位を持つ貴族である以上、そんな人間を傷つければ不敬罪は避けられず、またすぐにこの場を去りたいが、その行動によって自分が犯人であることを邪推させてしまうため、人々は迂闊に動くことができない。



「何をしている?」



 そんな状況の中、救世主が現れた。



 それは三十代後半の中年男性で、身なりから察するに貴族の男と同じく相応の身分であることが窺える。そして、その推測が正しかったようで、貴族の男が口を開く。



「これは、ロンドウェル・フォン・コウハナブツジーン伯爵ではないかえ。どうしてこちらに?」


「ただの散歩だ。それで、チャロス・フォン・ドスケベーノ子爵。こんな往来で一体何をしていたのだ?」


「貴殿には関係のないことだえ」


「ならば、すぐに屋敷に戻られよ。貴族がいつまでもこのようなところで油を売っているものではないと思うのだが?」


「くっ、か、帰るだえ! 覚えているだえ。このことを父上に言いつけてやるだえ!!」


「ふん」



 ドスケベーノ子爵と相対したコウハナブツジーン伯爵は、毅然とした態度でこの場を収めようとする。相手の爵位が上ということもあってか、子爵も大人しく引き下がった様子だ。



 まるでかませ犬のような三流悪役の捨て台詞を吐きながら、子爵はその場を去っていく。一方の伯爵はその場にいた人々に頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。



「皆、此度は貴族が迷惑を掛けた。許せ」


「頭をお上げください!」


「コウハナブツジーン伯爵が謝ることではございません!」


「そうだぜ。悪いのはあの男じゃないですかい!」


「これもケジメである。貴族が迷惑を掛けたのならば、同じ貴族である私が謝意を示すのは自然なことだ」


(ふ、気高いことで。まさに硬派な人物ってわけだ)



 本来ならば、それをするべきはドスケベーノ子爵に攻撃した秋雨であるはずなのだが、自分のことは棚に上げコウハナブツジーン伯爵の評価を心の中で呟く。



「……」


(ん? なんか俺と目が合っている気がするんだが。……気のせいか)



 頭を上げた伯爵だったが、その視線が秋雨のいる方向に向けられていることを彼は不思議がった。だが、ただの偶然であると片づけた秋雨は用が済んだとばかりにその場を去って行った。



(あの少年、一体何者だ? これは、調べてみる必要がありそうだな)



 彼の希望的観測とは裏腹に、その場にいた人間で唯一その存在に気付いた伯爵は、彼がいなくなった方向に視線を向け続けていたのであった。



 これが秋雨と伯爵の初めての邂逅であり、秋雨の正体を巡って彼との間でちょっとした面倒事に発展することになることを今の秋雨は知る由もなかった。

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