9.五月三日 午前十一時

【五月三日 午前十一時】

 寧が〝特異点〟に着くと、桂衣は美容院跡地の中から現れた。驚く寧に涼しく笑いかけた桂衣は、ツツジの煉瓦塀に座った。

「この辺りを探索してたんだ。中に入れる建物もあって、衣服や調理器具が残ってた」

「危ないよ。次からは、俺が来るまで待って……」

「川村、転校するんだって」

 ぽつりと告げられた台詞に、寧は驚かなかった。寧が桂衣の〝過去〟行きを阻止し、二人の距離が縮まっても、『宮原苑華の呪い』は止まらない。その事実に胸を痛めただけだ。初夏が近づく日差しは眩しく、砕けた宝石のような木漏れ日が足元で揺れている。桂衣は、薄暗い声で続けた。

「これで、あと一人……」

 山根のグループの女子生徒、石塚か。あるいは、親友に死への旅路を歩ませるきっかけを作った男子生徒、浅野か。『宮原苑華の呪い』は、どちらを犠牲者に選ぶのか。あの死体を見た寧は、その答えを知っている。

「寧くん。私も転校するんだ」

 突然に、桂衣が言った。驚いた寧を見て、寂しそうに笑っている。

「いつ?」

「来週」

「なんで……桂衣の家は、立ち退きの範囲外じゃ……」

「ダム建設は関係ないの。家族の仕事の都合。今までにも話は出てたんだ。私は苑華ちゃんと一緒にいたくて、反対してたけど……もう私には、反対する理由がなくなっちゃったから」

「……そうか」

 寧は、復讐を止められないばかりか、桂衣がこの町に留まる理由にもなれなかったのだ。「寧くんと仲良くなるって知ってたら、転校は嫌って言ったのにな」と桂衣が言ってくれたから、少しだけ救われた気分になった。

「今からでも、間に合わない?」

「三週間前に戻っても、間に合わないよ」

 それでも試したいという思いは、胸に秘めた。そんな奇跡は、宮原苑華のために夢見るべきだ。桂衣は、潤んだ瞳を寧に向けた。

「寧くん。五日の午前零時に、誰にも内緒でここに来て。最後かもしれないから」

「うん。必ず来るよ」

 やがて正午が近くなり、桂衣が「帰ろうか」と言って歩き出す。次の〝特異点〟の行き先は〝未来〟なので、桂衣には興味がないのだろう。

 寧も続こうとすると、美容院跡地で物音がした。振り向いて窓を覗くと、棚のインテリアが床に落ちていた。桂衣の侵入時に、物の配置が動いたのだろう。チリッという聞き覚えのある音を背後に残して、山を下りた寧たちは、宮原苑華の家の近くで別れた。

 家路を辿る途中で、寧は畦道あぜみちの先に知人を見つけた。

 浅野春斗あさのはるとだ。以前ほど整えられていない頭髪を風に流し、休日にもかかわらず制服を着ている。向こうも寧に気づき、精彩を欠いた顔で笑った。

「よお、珍しいな。寧の家って、こっちじゃないだろ」

「宮原さんの家に、お線香を上げに行ったんだ」

 咄嗟に罰当たりな嘘をつくと、浅野の顔色が死人のように白くなった。制服を着た死体の足が、寧の脳裏に蘇る。

「そうか……寧もか」

「え? それじゃあ、浅野も……」

 宮原家に、線香を? 浅野は自嘲気味に唇を歪めて、片手で両目を覆った。

「寧。俺さ、宮原さんのことが気になってたんだ」

 寧は、言葉を失くした。

「軽い気持ちだったと思う。少しからかってみたいって気持ちで近づいたことは、否定しない。でも、だけどさ……こんなことを、俺は望んじゃいないんだ。一緒に居残っただけで、こんなことになるなんて、嘘だろ……嘘にしてくれよ……」

 魂が壊れそうな告白に、寧は打ちのめされていた。私服姿の嘘つきと、制服姿の正直者。一体どちらの少年が、宮原苑華をいたんでいると言えるだろう。

 それでも、浅野は死ぬのだ。『宮原苑華の呪い』によって。

「……浅野。しばらくは、身の周りに気をつけたほうがいい」

 忠告を済ませた寧は、驚く浅野を畦道に残して立ち去った。

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