7.四月二十九日 午前六時

【四月二十九日 午前六時】

 初めての時間遡行そこうを行ってから、〝特異点〟の研究は本格化した。

「〝特異点〟の正確な範囲を知りたいな。寧くん、いい方法はない?」

「それくらいなら、簡単だ」

 ツツジの塀に座った寧は、通学鞄から先日返却された小テストを取り出した。答案用紙を細かく千切り、桜に灰をおきなのように、煉瓦の舗道へ散らしていく。

 水色ととき色に染まった空の下、半熟卵に似た日の出を迎え、鳥のさえずりが響く廃村に、二人は部活と称して登校前にやって来た。桂衣と〝特異点〟で過ごす時間が、いつしか寧の日常になっていた。実験を理解した桂衣が、腕時計を確認した。

「午前六時。前回の行き先は〝未来〟だから、今回は〝過去〟のはず」

 〝特異点〟の力は、推測通りに発動した。破いた答案用紙の一部が、クッキー生地を型でくり抜くように消失する。桜の枝葉の真下、直径二メートルほどの円形の範囲だけ、煉瓦タイルが露わになった。

「すごい、本当に判っちゃった!」

 頬を上気させた桂衣の隣で、寧は頬を引き攣らせた。――奈落への入り口のように浮き彫りになった〝特異点〟は、あの死体がぴったり収まるサイズだった。

 例えば、人間の他殺体を、人知れずこの落とし穴に投げ入れたら、死体もトリックも見つけられない、完全犯罪の出来上がりだ。復讐だって、容易だろう。

 暴かなくていい謎を、白日の下に晒してしまった。宮原苑華の救世主になり得る〝特異点〟が別の顔を見せたことが、寧に恐れを抱かせた。そして、足元に残った答案用紙を見下ろすうちに、もう一つの事実に気づき、愕然とする。

 ――あの時から、この結末は決まっていたのだ。

「この調子で〝特異点〟を把握すれば、苑華ちゃんを助けられるよね」

「……たぶん、もう無理だ」

「え?」

 山の涼やかな風が、二人の制服を撫でていく。もう、寧には分かってしまった。桂衣の願いは、叶わない。

「俺たちがここで会った、始業式の四月八日に……〝特異点〟のそばに、この答案用紙が落ちてた。俺たちが今、〝過去〟に送った切れ端だ」

「分からないよ。もう無理って何? 切れ端と苑華ちゃんに、何の関係があるの?」

 桂衣が、縋るような笑みを浮かべた。哀切の表情と向き合うだけで、寧の胸も激しく痛んだ。〝過去〟で真剣に走った時のように、他人の悲しみにここまで心をき動かされたのも初めてだ。気づけばいつもの口癖も、全く言わなくなっている。

「〝過去〟にさかのぼる実験の最長記録は、三週間だ。この答案用紙も、四月二十九日から四月八日に送られた。時間遡行の限界は、三週間だって可能性が高い」

「嘘だよ」

「嘘じゃない。俺たちが〝特異点〟を調べ始めてから結構たつのに、三週間を超える時間遡行の例は、一度もないんだ」

「嘘、そんなの、嘘だよ!」

 桂衣が、頭を振った。寧だって、こんな仮説は嘘にしたい。だが、嘘を信じ続けていても、宮原苑華は帰ってこない。桂衣だって、本当は分かっているはずなのだ。

「〝特異点〟の『風向き』は、〝過去〟よりも〝未来〟のほうに強く向いているのかもしれない。この桜とツツジだって、〝特異点〟の影響で早咲きなんだって考えたら、納得できる。それに、俺たちが〝未来〟に送った物で、まだ見つかってない物もある」

 実験を始めたばかりの頃に、桂衣が〝未来〟へ送ったクマのぬいぐるみを、寧たちはいまだに見かけていない。何日、何か月、何年先で二人を待っているのか、その時を迎えるまで知る由もない。

「〝未来〟の上限は、観測不能。数年先まで行けるかもしれない。でも、〝過去〟には最長で三週間しかさかのぼれない。二月に屋上から落ちた宮原さんを助けるには、三月のうちに〝過去〟へ戻らないといけなかったんだ」

「じゃあ、私は……苑華ちゃんを助けられないの……?」

 絶望の目で呟く桂衣に、寧は何も言えなくなった。

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