20.月が欲しいと願った

 言葉が足りなかったのだ。神官ロジェの訃報を聞き、リゼットは膝から崩れ落ちた。夫の死を覚悟した時以来、初めて泣いた。こぼれ落ちる涙に滲む後悔が、前回はなかった新しい感情を生み出す。


「神官様が成し遂げられなかったことは、私が成しましょう」


 女神様に仕える神官ロジェは己の命を以って、前回の失態を償った。ならば神に仕える女性神官として、私が贖罪を行えばいい。子どもはいない。父母は弟の庇護下にあり、何も心配はなかった。


 きつく結い上げた長い髪を解き、肩の長さで切り落とす。これでもう侍女や貴族夫人には戻れない。長い髪は貴族女性の証なのだから。切った髪を丁寧に包み、服が入ったトランクにしまう。それを手に屋敷を出た。玄関の門を閉めたところで振り返り、夫との思い出を辿る。それから微笑んで会釈した。


 屋敷はもう私に必要ない。弟に相続させましょう。足早に神殿へ向かい、門を叩いた。神官の自殺という不祥事に見舞われ、閉ざされた門を辛抱強く叩いたオーベルニ男爵夫人リゼットは、憔悴した表情の神官を押し切る形で世俗を離れた。




 セシャン伯爵の次男パトリスは、悪夢のように甦った前回の記憶を反芻した。以前に夜会でお見かけし、想いを寄せたコンスタンティナ嬢の首が落とされた。その後の内紛で父は宰相閣下に付いた。だが兄は王家派の貴族と手を組む。もう持ち堪えられない王族を支持するフリで、懐を潤す兄を軽蔑した。もし自分に剣の腕があり、伯爵家の名を背負うことができたなら、兄や父と違う道を選ぶ。


 フォンテーヌ公爵家の味方がしたかった。惚れた女性の名を知り、引き退らざるを得なかった。恋心は伝える前に散り、胸の奥で痛みを生む温床になる。せめて嫡男なら、騎士として名を馳せていたら。そんな気持ちが残り、諦められなかった。


 王太子殿下の婚約者、美しき人形姫、最も豊かな領地を持つフォンテーヌ公爵家のご令嬢。彼女を彩る肩書きは尽きることがなく、月のように手が届かない人だと思い知らされる。


 それなのに王太子は、あの気高い姫の首を刎ねた。隣で品のない振る舞いをする女のために、コンスタンティナ様を殺したのだ。引き摺り出される彼女を助けようとしたパトリスは、隣の父に殴られた。痛みを無視して飾り物の剣の柄に手を乗せる。不敬罪でも反逆罪でもいい。とにかく彼女を助けたい。少しでもいい、自分より長く生きて欲しかった。


 それだけなのに、顔の形が変わるほど殴られる。父の拳の向こうで、悲鳴が上がった。ああ、間に合わなかった。あの方は天に召されてしまう。ならば、と己の首を刎ねようとして殴り倒された。後で聞いた話では、父が指示した侍従の手で馬車に放り込まれたらしい。


 死に損ねてしまえば、なかなか次のチャンスがなかった。パトリスの乱心を知った父により監視がつけられる。帝国との戦いや属国化を回避しようとする宰相を手伝う父が死に、没落する家を捨てて侍従が逃げ出す。ようやく自由になれた。


 げらげらと笑いながら、壁に飾られた剣を引き抜く。もう狂っていた。戦働きで伯爵位を得た先祖が実戦で使った剣と伝えられ、装飾もない実用一点張り、ずっと壁に掛けられてきた。兄ももうすぐ自滅するだろう。ならば……気兼ねなくコンスタンティナ様の後を追える。


 引き抜いた剣は手入れが行き届き、首に当てただけで薄く刃が肌を傷つけた。同じ死に方で追うのが、あの日助けられなかった俺の贖罪だ。そう呟いて己の首を落とした。


 目覚めてやり直しを知り、口元が緩む。まず向かったのは神殿、美しきあの姫君の葬儀を拒んだ神官を片付けようか。心を殺せば肉体も死ぬ――同情に見せかけた言葉で、口調で、導いてやろう。翌日、神官の訃報を聞きながらワインの栓を抜く。あの日から今日に至るまで、俺はすでに狂っている。

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