永遠のクラゲたち

松樹凛

第1話

 ウィルが島を出ていくと、ぼくの世界は真っ暗になる。

 夏が来て、彼が島を訪れるたび、ぼくは残された時間について考える。大抵の場合は十日から二週間。一度だけ、三週間近く滞在したこともあった。その年はナキクラゲの繁唱日が、ずいぶん遅かったのだ。

 島にいる間、ウィルはぼくの部屋に泊る。ベッドは一つしかないから、ぼくたちは交代で床に寝る。床板はかなり緩んでいて、寝返りを打つたびに不吉な音で軋む。時々、ねじれた陰毛が目に入ることもある。それがぼくのものなのか、ウィルのものなのかはわからない。見つけるのはいつも夜で、朝になるとその縮れ毛は消えている。

 十四歳になるぼくの身体はやせっぽちで、硬い床の上で寝るといつも背中が痛くなる。ウィルは違う。同い年のはずなのにぼくよりずっと大柄で、引き締まった背中の筋肉は、惚れ惚れするようなラインを描いている。内地の学校では、飛び込みの選手をやっているらしい。さぞかしモテるんだろうなとぼくが言うと、女には不自由しないと彼は答える。

 それじゃ、男はどうなんだい。

 もちろん、と彼は笑う。友達なら腐るほどいるぜ。

 へえ。そりゃ、素晴らしい。

 拗ねたように寝返りを打つと、彼はベッドの上から手を伸ばし、ぼくの肩を軽くたたく。そこに込められた感情が何なのか、ぼくにはわからない。わかりたくもない。理解したところできっと、意味のないことだから。



「だいぶ増えてきたな」

 半月型の潮だまりに小石を投げ入れながら、ウィルが言う。昼前の太陽に熱せられた海水は生煮えのスープのようで、数匹の小魚が苦しげにヒレを動かし上を目指すが、凪いだ水面は分厚い膜のようなものに覆われている。手に持った釣り竿を潮だまりにつっこんでかき回すと、破れたビニールシートのようなものが何枚も、べったりと竿の先にまとわりつく。

 ナキクラゲだ。

「明日くらいには、もう歌い始めるかもな」

「お父さんに教えなくていいの?」

「言わなくたって気づくさ」

 彼は面白くなさそうに言って、二つ目の小石を磯に投げた。白みがかった岩礁にいくつもの波がぶつかり、砕け、微細な飛沫になってぼくたちの足を濡らす。

 ナキクラゲはこの海域にだけ生息する奇妙なクラゲだ。見た目は普通のミズクラゲに似ていて、うっすらと白みがかった傘は八インチほど。遊泳能力はほとんどなく、普段は波に揺られながら海中のプランクトンを食べているらしい。要するに、ただのクラゲだ。生きている間は。

 それは、毎年夏に起きる。老いたナキクラゲたちが一斉にこの入江を目指して集まってくるのだ。密集したクラゲたちは波に揺られ、岩礁に囲まれた入江のなかで、その時を待つ。寿命を迎えた身体を脱ぎ捨て、新しい幼体ポリプとなる瞬間を。まったく同じ遺伝子を持った同一の個体に、彼らは生まれ変わるのだ。

 不老不死さ、と父さんは言う。ナキクラゲたちは死なない。何度でも、何度でも生まれ変わる。そして彼らが生まれ変わるとき、不思議な鳴き声が入江に響く。ナキクラゲという名前の由来はそこにある。

 クラゲの鳴き声というのは実に奇妙だ。説明するのは難しい。たとえば、砂浜に行って、地面に耳を近づけると、かすかな音が聞こえることがある。それは波のなかで砂がぶつかり、こすれ合う音なのだけど、ナキクラゲの鳴き声はそれに似ている。ずっと大きく、抑揚に富んではいるけれど。

 彼らがどうやって鳴き声を発しているのか、それが生まれ変わりの秘密とどう関わっているのか。詳しいことは何もわかっていない。それを調べるのが、ウィルの父親の仕事だった。もう十年以上、彼はこの島に通っている。夏になるたび内地から島に渡り、ウィルをぼくらの家に預けると、自分は高台にテントを張ってそこで暮らす。

 ぼくはクラゲたちが好きだ。彼らのおかげで、ウィルが島に来てくれるから。

 ぼくはクラゲたちが嫌いだ。彼らが鳴きだすと、ウィルが島を去ってしまうから。

「そうだ、港に行かないと」

「港って……、島の裏か?」怪訝そうな表情でウィルが言う。

「ガソリンが来るんだ」ぼくは説明した。「発電機の燃料が底をついてたから、買いに行かないと」

 岩から飛び降り、誘うように首を傾げる。いいぜ、とウィルは言った。

 一緒に行くよ。



 船着き場に行くと、すでにフェリーの姿があった。ひと月に一度、島に必要な物資を届ける連絡船だ。ヘルメットをつけた若い男たちが数人、汚れた木箱をせっせと船から下ろしている。

 昼過ぎだというのに、港は閑散としていた。いつものこと。小さな島なのだ。ぼくたちは錆びたアーチ型の車止めに腰かけ、埠頭の方を眺めながら、買ったばかりのドゥクを齧った。透明な果汁があごを伝い、サンダル越しに爪先を濡らす。

「あいつら、バカみたいじゃないか?」

 秘密を打ち明けるみたいに肩を寄せて、ウィルが囁いた。

「何だって、ヘルメットなんか着けてるんだろうな。このクソ暑いのにさ」

 確かに、驚くほど暑い日だった。神様が雲の上からガソリンを撒いて火をつけたんじゃないかって思うくらい。ひじが触れるほど近づいたウィルの身体から、むっとする汗の匂いが香る。潮風の向きが、ふいに変わった。

「そう言うなよ、ウィル」知らない男の声がした。「規則なんだ。守らなきゃ、船長にドヤされちまう」

「ピート!」

 ウィルが弾かれたように立ち上がり、知らない名前を呼んだ。ぼくは目を細めながら顔を上げ、話しかけてきた男の顔を盗み見た。この島の人間じゃない。どうやら、ウィルの知り合いらしい。

 ピートは背の高い男だった。ぼくたちよりは少しだけ年上に見えるが、子供であることに変わりはない。作業服に包まれた身体は引き締まっていて、血管の浮き出た両手はよく日に焼けていた。鼻の下に、少しだけ髭が生え始めている。

「どうしてここに?」

「親父のせい」ピートは鼻を鳴らした。「ヒマなら稼いで来いとさ」

「内地で働けばいいだろ」

「払いがいいんだ。船の仕事はな。お前こそ、どうしてここにいる?」

「ガソリンを買いに来たんだ」

 ぼくはウィルに代わって口を挟んだ。「発電機の燃料が切れちゃってさ。去年までは危ないからダメだって言われてたんだけど、もう十四だからね。発電機のメンテも一人でやってるんだ。もちろん、大したことじゃないけど」

「よせよ、ロブ」

 ウィルはぼくの肩に手を置いた。

「この子、親戚かい?」

「違う」ウィルは後ろ髪をかき上げた。「親父の知り合いの子供だよ。島にいる間、世話になってるだけだ」

「ああ、そう言えば、前に話してたな。クラゲだろ? 親父さん、まだそんなことをやってたのか」

「毎年さ」

 ウィルはつまらなさそうに笑った。食べかけのドゥクを地面に捨て、サンダルの先で踏みつける。彼らしくない乱暴な行為に、ぼくはぎょっとして目を見開いた。一度だって、食べ物を粗末にするところを見たことがないのに。

 目を伏せて、俯きながら二人のそばをこっそり離れる。ぼくがいなくなったことに、ウィルは気づいていないようだった。どことなく強がるような表情を浮かべて、ピートと話し込んでいる。ぼくはフェリーの方に行くと、男の一人から真っ赤な携行缶を受け取った。

「重いぞ」男がからかうような笑みを浮かべる。

「平気さ」ぼくは答えた。「もう十四だ」

 ウソだった。ガソリンのたっぷり入った携行缶は信じられないほど重くて腕が痺れたし、それに十四歳にはまだなっていない。

 誕生日は一週間先だった。



 その夜は風が強かった。

 目を瞑るたび、瞼の裏に潰れたドゥクの白い果肉が蘇る。岸に打ち上げられ、鳥たちに啄まれた魚の内蔵のようだ。ほのかな酸味が鼻をつき、黒い羽虫が輪を描いて飛びまわる。果肉はぶよぶよと蠢き、膨れ上がって大きなクラゲの姿になった。

 明日の夜、きっとクラゲたちは歌うだろう。ぼくはそう思い、硬い床の上で寝返りを打った。クラゲの歌が入江に響くのは一夜だけだ。夜が明ければきっと、ウィルは島を去ってしまう。内地に帰るのだ。ぼくの知らない彼の町に。

 ぼくは目を開け、ベッドの様子を盗み見た。毛羽立ったタオルケットが、規則正しく上下に動いている。耳を澄ますと、薄い壁の向こうから発電機の鈍い音が聞こえた。上体を起こしてそっと立ち上がり、寝室を抜け出す。

 居間のソファでは父さんが眠っていた。六角形のテーブルにウイスキーの瓶と、ふちの欠けたグラスが並んでいる。ぼくは父さんを起こさないように居間を横切り、砂嵐の映ったテレビを消すと、玄関の戸を開けて外に出た。

 夜空に浮かんだ月は細く、星々は蛍のように瞬いていた。内地の川べりには、そういう虫が棲んでいるらしい。

「見に来いよ」

 いつだったか、ウィルがそう誘ってくれたことがあった。

「たまには島を出てさ。内地も悪くないぜ。俺が案内してやるよ」

「そうだね」

 ぼくは話を合わせるように頷いたけれど、本当は内地に行くつもりなんてこれっぽっちもなかった。

 昼間に会った、ピートという青年の顔が蘇る。

 ここはとても小さな島だ。三時間もあれば海岸に沿って一周できるし、住んでいるのもせいぜい二十人くらい。そのなかに、ぼくらと同じ年ごろの子供は一人もいない。

 でも、ウィルの暮らす町は違う。そこには十四歳の子どもなぞ、ごまんといるのだ。もしもぼくが内地の町に生まれていたら、きっと彼と友達になることはなかっただろう。だからぼくは、島を出るような真似はしない。ぼくらが友達でいられるのは、この島の中だけだから。

 家の裏手に回る。物置の明かりを点けると、真っ赤な携行缶が目に入った。中身は多少減っているけど、まだ半分くらいは残っている。両手でつかみ、引きずるようにして外に出す。息が上がり、わきの下を汗が伝ったが、やめる気にはならなかった。

 潮風に逆らって、入江に向かう小道を下る。真夜中の海は暗く、すべての光を飲み込む巨大な洞穴に見える。それでもわずかに何かが光るのは、入江を埋め尽くしたクラゲたちの傘のせいだ。わずかな月明かりをレンズのように集めて屈折させ、その一部を星々に向けて反射している。

 ぼくは大きく息を吸い、岩に載せた携行缶のキャップを外す。つんとした匂いが鼻をつき、思わず胸に手を当てて咳き込む。

 真っ赤な携行缶を傾け、中の液体を満潮の入江に注ぎ込む。ガソリンの比重は水よりも軽い。魚のうろこのようにキラキラと輝きながら、それは波の狭間に広がっていく。身を寄せ合ったクラゲたちの傘にまとわりつき、無数の細い足を絡めとる。その先に何が起こるのか、ぼくは知らない。不老不死と言われるクラゲたちが窒息して死ぬのか、あるいは意に介さず生き残るのか。

 死んでくれればいい、と思う。全てじゃなくても、その一部が。ナキクラゲたちは、十分な数が集まらなければ歌い始めない。歌が始まらなければ、ウィルが島を去ることもない。そうすれば、ぼくたちは──。

「ロブ」

 暗闇のなかで、声がした。新しい月が波のなかに生まれて、揺れる。それがウィルの持ったランタンの灯りだと気づくのに、しばらくかかった。

「起きてたんだ」

「何やってんだよ、お前」

 ウィルがランタンを足元の岩に置き、ぼくの手元をじっと見つめる。真っ赤な携行缶のなかは、すでに空だ。咎めるような彼の視線には、戸惑いがわずかに混じっている。

「君のためなんだ」ぼくは嘘を吐く。「信じてくれ、ウィル」

 彼は何も言わない。ぼくは彼がぼくの言葉を信じないだろうと思うが、その期待は裏切られる。

「へえ、そうか」

 ウィルは笑う。それから携行缶を手に取り、逆さにすると何度も振って、最後の一滴を入江に落とす。これで共犯だと言うように。

「ありがとな」

「別に」

 ぼくは肩をすくめる。その気取った仕草がぼくを大人にして、彼の隣に立たせてくれる。今やウィルの右腕はぼくのすぐそばにあり、今にも指先が触れそうな場所で規則正しく振れながらゆっくりと時を刻んでいる。

「ウィル──」

 言いかけたその時、彼の腕が動く。ポケットのなかをまさぐったかと思うと、手品師のような手つきで二つの品を取り出す。ひしゃげた煙草の箱と、数本のマッチだ。

「ピートにもらったのさ」

 彼はそう言って笑い、マッチを擦って海に放る。

 ぼくは止めようと腕を伸ばすが、その指は何も掴めない。波が炎に包まれ、黒煙が上る。パチパチと何かが弾ける音がする。息が詰まり、大きく咳き込む。

「くせぇ」

ウィルが唾を吐く。唾は炎のなかに落ち、あっという間に蒸発して消える。

「こいつらが全員くたばれば、こんな島、もう来なくて済むかもな」

 そう言った彼の目はもう、ぼくのことを見ていない。

 ぼくは突然、クラゲたちのことが大好きになる。海になり損ねた透明な身体も、ちりちりと焼けていく無数の足も、そこにあったかもしれないささやかな永遠も、その全てが愛おしくなる。

 岩肌に膝をつき、ぼくは聞こえたかもしれない歌に耳をすませる。けれど聞こえてくるのはただ、炎のなかで波が弾ける音だけで、クラゲたちが歌うことは二度とない。

「吸うか?」

 顔を上げると、目の前でくの字に折れた煙草が揺れている。つまんだ二本の指からは、彼の汗の匂いがする。何と答えるべきなのか、ぼくにはわからない。わからないまま、それを受け取って立ち上がる。ゆっくりとまばたきをして、次に目を開けたときに炎が消えてくれることを願う。消えない。

 ぼくたちの目の前で、永遠が静かに焼け落ちる。白い煙草を指先でつまみ、回し、細い三日月の光にかざす。唇に近づけ、彼の残り香を探しながら、それにそっとキスをする。

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永遠のクラゲたち 松樹凛 @Rin_Matsuki

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