第13話 夫婦の信頼、主従の信頼

 衛士の宦官が、大きく部屋に踏み込んできた。

 左手には、衛士がいつも手にしている槍があるが、右手に小刀が握られている。

 小刀で狙っているのは、ながいすから立ち上がった春燕だ。


「春燕!」

 雹華はとっさに、月琴を抱えたまま春燕を横に突き飛ばした。

 小刀が月琴をかすめ、ビン、と音を立てて弦が断ち切られた。さらに、雹華の襦裙の袖も切り裂かれる。


「雹華様っ」

 倒れ込んだ春燕が目を見張り、叫んだ。

「誰か……!」


 衛士はすぐに、春燕に突進して馬乗りになった。


 雹華の頭の中を、この舞台の脚本が瞬間的にぎる。

(衛士は、『春燕を小刀で殺した私を自分が槍で始末する』という場面を作ろうとしてる)


 途中で人が来ても、変装した雹華が春燕を殺しにきたという状況が衆目に晒される。

 雹華が逃げのびたとしても、疑いは強まるばかり。

 衛士には、ほんの数秒あればいい。春燕さえ殺せば、雹華に罪を着せるという目的は達せられる。


 一瞬でそこまで考えて──

 雹華は月琴を放り出し、小刀を振り上げた衛士の腕にしがみついた。

(ほんの少し、時間を稼げば、旦那様がきっと気づいて下さる!)


 非力な女でも、しがみつかれれば衛士は思うように小刀を振るえない。

「……ちっ……どっちが先でも……!」

 衛士は左手の槍を逆手に持ち直し、右腕を拘束している雹華に突き刺そうとした。


 バキッ、と音がした。

 下がっていた御簾が躊躇なくむしり取られ、露台から銘軒が突っ込んでくる。

「おらぁ!」

 ぶん、と銘軒の槍が振り下ろされた。衛士の左手首に刃が埋まり、ゴッ、と骨で止まった。

「ぎゃあっ」

 衛士が槍を取り落とす。

「雹華、どけ!」

 怒鳴りながら、銘軒は槍を引き抜いた。ヒュンッ、と半回転させ、石突いしつきで衛士を突き飛ばす。

 雹華は春燕を助け起こし、支え合いながら壁際に下がった。


「少卿殿も共犯になりたいかっ!」

 立ち上がった衛士は、小刀を構えた。銘軒は軽くあざ笑う。

「諦めの悪い……!」

 衛士が突っ込んでくる。


 銘軒の槍が迎え撃ち、突き刺されて終わり──かと思われた。


 いきなり、銘軒は槍を持ったまま、榻を蹴り上げた。

「!?」

 榻が衛士の身体にぶち当たったところへ、銘軒はなんと跳び蹴りを食らわせる。

 榻ごと衛士は壁に突っ込み、そして。

 ゴン、と頭を打ち、ずるずると床に崩れ落ちた。


 ふぅ……と息をついた銘軒は、雹華と春燕が固まったまま彼を見ているのに気づく。

「あぁ、いや、生かしておかないと証言取れねぇ……取れませんので」

 荒んだ幼少期を送ってきた彼は、実は槍などきちんとした武器は不得手で、その場にあるもので不意打ちに持ち込む方が得意なのだった。


「よ、よかった」

 雹華はへなへなと座り込む。

 春燕があわてた声を上げた。

「血が!」


「見せろ、ください」

 戦った勢いで(?)さっきから言葉遣いがおかしい銘軒だが、すぐに雹華の腕を見る。

「かすっただけみたいだな。とにかく、人を呼ぼう」

「人を呼んで、大丈夫でしょうか」

 雹華は不安になり、銘軒を見つめる。

「変に疑われたり、旦那様にまでご迷惑が」

 銘軒は軽く首を振った。

「あんた一人が怪我してる状況だ、変な話だが犯人にしちゃおかしい。俺も房妃様もいる。それに、ああ、もう気づかれてるな」

 戦闘はほんの三十秒ほどだったが、御簾が外れて外の衛士が気づき、また物音で宦官や侍女がいぶかしんでやってきている。


 ようやく、衛士は捕らえられた。


「でも、この衛士が毒を盛ったとは思えません」

 雹華は銘軒に言う。

「衛士が厨房にいたら、それだけでおかしいですもの。毒の残った小瓶を、私の部屋の近くに捨てることならできたと思います。となると共犯が」

「雹華様、とにかく今はお手当を!」

 春燕は雹華のために、侍女を呼んだのだった。

 


 夜もとっぷり更けた頃。


 雹華と銘軒は、とんでもない部屋にいた。

 赤い柱には、金の龍の彫刻。正面は一段高くなって、立派な壁絵を背景に大きな椅子がある。部屋の隅に置かれた香炉から、ほんのりと高貴な香りが漂っていた。


「……何でこんなことになってんだ……?」

 銘軒はそわそわしながら、やや詰まった首元を気にしている。

 彼は、衛士の鎧から、礼装に着替えていた。いつもの服より袖が大きく、革帯には金の装飾、裾も長くてひらひらしている。

 雹華も妓女の化粧を落とし、上品な襦裙に着替えていたが、銘軒を見て密やかに笑った。

「よくお似合いですよ。……あ、いらっしゃいました」


 壁絵の左奥から、赤と黒の上衣に黄の下裳を覗かせた人物が現れた。簪で固定された冠は、皇帝のもの。


 令国皇帝である。


「御前に参上いたしました」

 膝をついて礼をした雹華と銘軒に、十七歳の若き皇帝は声をかけた。 

「立ちなさい」


 銘軒が皇帝から直接言葉をかけられるのは、これが初めてである。

(なんだか、嘘みたいだ。泥まみれで暮らしてた頃は、こんなこと想像もつかなかった)

 皇帝の整った顔立ちを間近に見て、彼は密かに心の中で感動を噛みしめた。


 いつの間にか、皇帝の後から春燕が入ってきていた。腰かけた皇帝の斜め後ろに控え、雹華たちに微笑みかける。


 皇帝は機嫌良く、砕けた口調で雹華に話しかけた。

「事件があったと聞いて、話を聞きたくてな。無事でよかった、雹姐!」


 銘軒は思わずギョッとして、雹華を見てしまった。

(雹姐(雹姉ちゃん)!?)


「私のことなどより、房妃様がご無事で何よりです」

 さらりと雹華が答えると、皇帝は春燕を振り返った。微笑み合う。


(仲睦まじそうだな……)

 銘軒が思っていると、皇帝は彼の方を見た。

「林銘軒」

「はっ」

「そなたに雹姐を託してよかった。朕の目に狂いはなかったな」

「はっ……?」

 銘軒は思わず聞き返した。

「主上が御自ら、俺をお選びに?」


「そうだとも。銘軒が、太上皇陛下のお命を救った衛士の一人だということは知っている。朕の大切な姐も、大事にしてくれるだろうと選んだ」

 皇帝はニヤリと笑う。

「雹姐から聞いているかもしれないが、朕にとって父上の妃だった女たちは皆、姉のような存在だ。母上を亡くした朕に、後宮の女たちは皆、優しくしてくれた。父上が身罷っても守りたかったし、失いたくなかったから、残した。新しい妃たちと諍いもあったようだが、それはそれ、姐たちはかえって団結したようだ」


(しゅ、主上、それは少々ズルいのでは!?)

 銘軒の周囲にも、女性と仲良くなっておいて「君は姐(妹)みたいなものだ」などと言っては、他の女性に手を出す男がいる。

 今上皇帝十七歳、意外とちゃっかりしているのか、それとも味方を作るのがうまいのか。

(まあ、納得の上で残った『姐』たちなんだもんな。主上の元なら、と思ったからこそだろうし)


「雹姐の侍女を妃にしたのは、新しい妃たちには面白くなかったかもしれないが」

 皇帝は困ったような笑みを、春燕に向けた。

「高斗妃も許井妃も、貴族たちとの関係で高位の妃に置いているし尊重もしているが、寵する妃くらいは自分で見定めたかったのだ」


 つまり、皇帝が初めて自分で選んだ妃が、春燕だったのだろう。

 他の妃たちとまるっきり雰囲気が違うところを見ると、父皇帝が好んだいかにも女性らしい女性は、苦手なのかもしれない。


「そして、春燕を見初めたことで彼女の命が狙われてしまい、雹姐に疑いがかかってしまった。春燕には無実だと訴えられたし、朕もそう思ってはいたが、高斗妃や許井妃の手前、疑わしい者を全くの無罪にするわけにもいかない。しかし、ただ追放するのでは有罪も同然、雹姐が不幸になる。そこで、下賜という形にし、相手に銘軒を選んだ」

 皇帝の言葉から、彼への信頼を感じる。

 銘軒は言葉もなく、再び礼をとった。


 雹華もそれに倣い、そして言う。

「身に余るご配慮、ありがたき幸せに存じます」

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