第8話 未練を断ち切る方法
鈴玉が茶を淹れて下がっていくと、雹華が不思議そうに尋ねた。
「お話とは、何でございましょうか」
銘軒は腕組みをしたまま聞く。
「あんたがここに来てから、だいぶ経つな」
「はい」
「しかし、あんたの様子を見ていると、後宮に未練があるようだ」
ぴくっ、と雹華の肩が揺れた。
銘軒は彼女をじっとりと睨む。
「主上のために生きるのはもう叶わない、と口では言っていたが、宮城の方を見て泣いてるのを見た。未練などないとは言わないよな?」
雹華はうつむいて、小さな声で答える。
「……はい」
「だろうなぁ。侍女を殺しかけるほど、主上をお慕いしてたんだから」
雹華は一瞬、はっと息を飲んだように見えた。
(雹華は、主上のお役に立ちたいんじゃない。主上を独り占めしたいだけだろ。なーにが、俺と同じ気持ち、だ)
少しでも
「太上皇の御列が襲われた時の話は、したよな。もし、思いあまったあんたが、主上相手にあんな事件を起こそうものなら……と考えるとぞっとする」
目を見開いた雹華が顔を上げた。
「私、そんな! 主上の御身に危害を加えることなど、ありえません!」
「それを信じられるほど、俺はあんたを知らないし、俺は衛尉寺少卿で、主上をお守りする立場だ」
銘軒は語気を強め、一言一言区切るようにして言い聞かせる。
「何かあったら主上に申し訳が立たないし、かといって、主上に賜った妃を幽閉しておくわけにもいかない。何とかして吹っ切ってもらわないと困る」
「……吹っ切る……」
戸惑っている雹華を見て、銘軒はゆがんだ笑みを浮かべた。
「婚礼前だが、俺の
雹華の白い頬が、かあっ、と赤くなった。
(こんな
少々呆れながら、銘軒は席を立つ。
「方法は何だっていい、とにかく吹っ切れ。話はそれだけだ」
そのとたん、雹華はパッと顔を上げて言った。
「あの、旦那様、お願いが!」
「何だ。本当に来るか?」
「そ、そうではなくてっ」
真っ赤な顔のまま、雹華は潤む瞳で銘軒を見た。
「おっしゃるとおり、私も、未練を断ち切らなくてはと思っておりました。どうか、力をお貸し下さい。心残りを、なくしたいのです」
「……俺が手を貸して、何ができるっていうんだ」
座り直した銘軒は聞き返した。
雹華は必死な様子で訴える。
「あの、そのっ、月琴、なんですが」
「月琴? あんたがよく弾いてる……」
「はい。でも、父に強く言われ、主上の前では弾いたことがありません」
強ばった表情で、雹華は続けた。
「私、一度だけ、一曲だけでいいので、主上にお聞かせしたいとずっと思っていました。そうしたらきっと、心残りもなくなります。何とかして……例えば楽人のフリをして、後宮の行事に参加するなどして、主上にお聞かせすることはできないでしょうか?」
雹華は、彼にその手引きをしてほしいと頼んでいるのだ。
銘軒は呆れる。
「だから言ってるだろ。俺が、あんたを主上に近づけるわけがない。危険すぎる」
「そ……そう、ですよね……信じては頂けないと、わかってはいるのですが……」
雹華はうなだれた。
(曲、か)
その時ふと、銘軒の頭に一つの案が浮かんだ。
(雹華に吹っ切ってもらわないと困るのは確かだしな)
銘軒はもう一度、頭の中でその案を吟味してから、口を開いた。
「あんたが月琴を奏でるのを、主上にお聞かせできればいいんだな?」
「え」
顔を上げた雹華が、瞬きをする。
今度こそ、銘軒は立ち上がった。
「来い。出かけるぞ」
「えっ? どちらへ」
腰を上げつつも戸惑う雹華に、銘軒は一言、告げる。
「妓楼だ」
東市場の近くにある坊里には、多くの妓楼が立ち並んでいる。
昼下がりの色町は、妓女たちと食事や遊び、逢瀬を楽しむ大勢の人でにぎわっていた。夜ももちろんにぎわうのだが、夜の宴会は灯り代をとられるので、食事の後に日暮れまで飲んで、坊里の門が閉まる前に帰る客も多い。
銘軒は、色町の北側の妓楼を選び、雹華を連れて行った。
「こっち側は格が低いが、南側は知り合いと出くわす可能性があるからな」
ひょい、と手を捕まれて、雹華は「きゃっ」と飛び上がりそうになる。銘軒が彼女の手を握り、人混みを引っ張っていた。
「はぐれるぞ」
「は、は、はいっ」
頭から被った
視線だけ動かして、あたりを見回す。
水路にかかった橋の赤い欄干、二階にも三階にも連なる華やかな釣り灯籠。
酒肴の香りや煙草の煙が漂い、楽器の音色や笑い声が満ちる。
そんな楼内に、銘軒は迷いなく突入していく。
(旦那様、ここにはよく、来られるのかしら)
「銘軒さん、いらっしゃい」
妓楼を営む
「おや珍しい、お連れ様? しかも女の方」
「ちょっとな。月琴が弾ける女を呼んでくれ」
銘軒が聞くと、仮母は「かしこまりまして」と答え、妓女の一人に銘軒たちを案内させる。
(やっぱり旦那様、常連さんっぽい……)
廊下をぐいぐい歩く銘軒に、雹華はあたふたと続きながら、抑えた声で訴えた。
「あのぅ、ここに、女の私がいたらおかしいのでは」
「別に、普通の客かどうかなんて見た目じゃわからないだろ。俺があんたを売りに来たのかもしれないし、道ならぬ関係の二人がここで会うために来たところかもしれない」
「はあ」
もはやついて行けない雹華である。
奥まった、小さな部屋に通された。
銘軒はひょいっと雹華の手を離し、座れ、と仕草で促す。
床の敷物に直に座って待っていると、膳に酒器が用意された。
「飲むか?」
徳利を差し出した銘軒に聞かれ、雹華はぶんぶんと首を横に振った。しかし、彼が「本当に?」というように首を傾けたのを見て、思い直す。
(旦那様、どういうつもりで私を連れてきたのかわからないけれど、妓楼に来たからには客らしくした方がいいのかしら。それに、もう、何というか、勢いをつけないと緊張して緊張して)
思い切って、披巾を取る。
「一杯だけ、頂きます」
雹華は両手で酒盃を受け取った。銘軒が注いでくれるのを待って、一気に飲み干す。
喉が、そして頬が熱くなった。
「……けほっ」
「あんた、結構いける口か」
「わかりませんっ」
(もう、何でも来い、です)
心を決めたとき、開けたままの格子戸からするりと、妓女が一人入ってきた。腕に月琴を抱えている。
「銘軒さん、いらっしゃい」
色町には楽人たちが待機している場所があり、こうしてそれぞれの妓楼に派遣されてくる。
「
「弾けますよぅ。外の料亭やお屋敷に呼ばれることだってあるんですよ?」
馨馨と呼ばれた妓女は雹華に目を向け、その猫のようなつり目を細めて妖艶に微笑んだ。
「お連れ様も、いらっしゃいませ」
「お邪魔しますね」
開き直った雹華も、何とか微笑んで挨拶する。
銘軒が雹華を指し、ざっくりと言った。
「月琴を聞きたいと言うので、連れてきた」
(??)
意味が分からないながらも、雹華はうなずいてみせる。
妓女は「かしこまりまして」と笑みを深くした。そして、銘軒に視線を戻し、
「こんな綺麗なお方がおいでなんだもの、私は演奏に専念していればいいですよね?」
と雹華を立ててくれる。
紅色の襦裙を来た馨馨は、若草色の飾り紐のついた撥をおもむろに構え、音色を奏で始めた。
男女の、永遠の愛の曲だ。
(馨馨さん、きっと、私が旦那様の何なのか、気づいているのね)
踏み込んだことは聞かず、しかし細やかな気遣いは忘れない妓女に、雹華は感じ入る。
演奏もなかなか巧みで、表情まで美しい。
彼女は見とれながら、耳を傾けた。
不意に、銘軒が腰をずらして雹華のすぐ近くに移動した。
(え)
体温を感じて振り向いた瞬間、銘軒の手がするりと彼女の腰に回った。
(!)
雹華は、瞬間的に固まる。
銘軒の顔が近づいた。
耳元に息がかかり、ささやきが聞こえる。
「馨馨の化粧とか装い、よく見ろ」
(……え?)
低いささやきは続いた。
「三日後に、あんたをある場所に連れて行く。もちろん、主上のおそばではないがな。そこで楽人のフリをしてもらう。変装できるようにしておけ」
(楽人の、フリ?)
驚いて顔を上げると、至近距離で銘軒と目が合う。
雹華はどぎまぎして、顔を伏せてしまった。
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