東経136度の鏡

「鼻毛出てんじゃん」


 鏡に写った自分の鼻から太くて長い鼻毛が生えている。

 道の真ん中ではあるけれど、鼻の下を伸ばしたり縮めたりして鼻毛の展開具合を確かめる。


「うわっ」


 スーツのおじさんが俺をギョッとした目で見て、そそくさと別の道へ逃げて行った。ジャージのズボンにヨレヨレのTシャツの男が、鏡の前で変顔をしている状況である。そう考えるとヤベーやつだな、俺。通報されなくてよかった。


 今は深夜で、年中夏休みみたいな大学生の夏休みだから、堕落しきってしまうのもしかたないだろ。

 最近、変な事故もあったらしいし面倒に巻き込まれる前に帰ろうと、夜食という名の朝食が入ったレジ袋をひっさげて、すぐそこの学生マンションに向かおうとしたけど立ち止まった。


 こんなところに鏡があったっけ。昼夜逆転して弱っている頭が違和感に気づく。

 俺は自分のことを賢いと思ったことはない。大学じゃ落第ギリギリだし、昨日の晩ごはんも覚えていない。

 でも、道に何があるかを忘れるほど馬鹿じゃない。バイトへ向かう道だから知らなかったというわけでもないし、全身が写るようなでかい鏡が道の真ん中に置いてあるのなら記憶に残っているはずだ。


 ここは十字路の中心。鏡なんて置いてあれば事故が起こる。ありえるなら、ドッキリか。

 テレビってヤラセばっかりだと思っていたが、本当にやっていたんだな。テレビに登場する一般人はテレビ局の回し者じゃないのか。あまり恥ずかしいところを取られたくはないのだが。

 変人度が上がっていくのを自覚しながら、塀の隙間とかを探る。だがカメラは見当たらない。


 やっぱりドッキリじゃないのか。不思議に思いながら鏡に向き直る。

 一見鏡だとは見えないほど汚れがない。指紋がつくのも気にせずに、俺は吸い込まれるように鏡に触れた。

 だが、すぐに手を離す。


 鏡に触れた感触が生暖かかったのだ。鏡の持つガラスの冷たさが一切なく、湿り気と共に人肌と同じ温度が帰ってきた。俺はもう一度鏡に手を当てる。

 やはり生暖かい。鏡の向こうの自分が生きているようだ。俺はじっと向こう側を見て、気がついた。


 俺と見つめ合っている向こう側の自分の瞳に、俺が写っていない。ヒッと悲鳴が漏れるのを我慢ができなかった。ようやく気づく。これは鏡ではない。

 途端に恐ろしくなって数歩下がる。向こうも全く同じように数歩下がる。鏡として正しい現象なのに、異なる生物がマネしているような恐ろしさがある。


 そういえば近く公園で、妙な事故があったらしい。

 学区内に一つはある子供のたまり場のような公園ではなく、地元民が名前を覚えてないくらいのお城跡地があった、便利だけど由来の知らない広い公園だ。

 事件というのは、その公園内で人が死んでいたらしい。

 事故ではなく事件と言われているのは、死に方があり得なかったから。遊具もない、老人か犬が散歩するだけのただ広い公園の真ん中で、全身に強い衝撃を受けて殺された。

 高いところから飛び降りたような、もしくは車に轢かれたような死に方だった。

 周りに高い建物はないし、飛び降りにしては血痕が変だ。轢かれたとしても公園内に車は侵入禁止だ。

 その死体はミンチみたいにぐちゃぐちゃだった。


 その話を思い出して俺は身震いする。関係ないかもしれない。だが、この鏡が原因だったら。

 公園はこの先、北に少し歩いたところにある。亡くなった人が何者かに追われるように逃げていたのを目撃した人もいる。


 向こう側の俺が急に笑い出したら怖いので、顔を見ないように目を伏せた。俺は怖い話が苦手だ。心霊番組を見た日には友人の家に泊まりにいくくらいにはビビリである。

 だからこの鏡を見続けるのが怖くなって、でも目を離して襲われるのも怖くて、視界のギリギリで捉える。


 息を飲む。嫌なことに気がついて冷たい汗が溢れる。

 この鏡には、端がない。正確には、この鏡に写っているのは自分だけ。

 十字路を南北に区切る見えない線上で、まるで影のように俺がいる。他は正常。異常なのは、向こう側の俺と、こっちの俺。

 レジ袋を取り落とす。向こう側も取り落とす。中身の弁当が崩れるのを気にしている余裕はない。できるだけ距離を取ろうと俺は走り出す。向こうも反対方向に走り出す。


 次の十字路が見えてきたあたりで、ガツン、と不意に何かが当たる。膝が割れるように痛い。高さ80センチくらいのところに見えない何かが存在している。全速力で走っていた俺は、それにつまずいて前に転げ落ちた。

 腹を押さえながら立ち上がって、その何かを見る。はやりそこには何もない。


 そしてそのまま向こう側の自分を見た。

 向こうの自分は鏡合わせなので、あの十字路を起点として反対側に走っていたようだ。その場所はガードレールの向こう側。柵を乗り越えて車通りの激しい道の真ん中に立っている。


「ざまあみろ」


 向こう側の俺は車に轢かれて死ぬんだ。俺は、恐怖に打ち勝った。消えるのは向こうの俺だけだ。そう思うと不思議と笑いがこみ上げてくる。

 だが、急に不安になった。


 どうして向こうの俺も笑っている。俺は逃げ切れたのに、何故。


 理由はすぐに分かった。俺がさっき乗り越えたもの。こちら側では見えないそれは、向こう側のガードレールだ。つまり、向こうとこっちの物理現象は繋がっている。

 鏡合わせなのだから、向こうが車に轢かれれば俺も————






 不思議な事件が起きた。

 車の運転手が、何かを轢いた感触で車を止めたが、あるのは凹みだけで血も何もついていなかった。

 そしてその数時間後、その場所から二つ離れた十字路で大学生が轢き殺されているのが発見された。その体は、何回も踏みつけられたかのようにぐちゃぐちゃになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東経136度の鏡 @husimi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ