百年愛せるわけでもあるまいに

 結局そんなものは盛りを迎えた後に散るばかりだろうと、彼女は彼の好意をしたり顔で否定した。

「百年愛せるわけでもあるまいに」

 長生である彼女はもしかしたら、こんなやり取りを何度も繰り返しているのかもしれない。そう思わせるに十分な、飽き飽きといった体で「ああ」と続ける。

「私はそういう『ペット』にも向かないぞ」

「そ、そういう意味じゃ」

 続けられた言葉に顔を赤くして否定しかけ、明はそのまま口をつぐむ。都会からはずっと離れた山裾の町、遠くでふくろうの声のする秋の夜。彼の恋の告白が行われたすぐ後のことだった。

「うん? じゃあどういう意味なんだ」

「……」

「ははは、からかいすぎたか」

 明は戸惑いながら彼女を見返す。濡れ羽色の長髪に青い瞳。長い睫毛を伏せれば頬の陰る、鼻筋の通った妖艶な顔。天井の裸電球は彼女の人外めいた美しさを照らしている。――明の生まれ育った家にあるこの離れは「離れ」とは名ばかりの二階建ての蔵で、二階はただの物置として使いながらも、一階の奥の窓のない間仕切りの中に、隠すようにして三メートル四方の底の深い生け簀を置いていた。今彼女は白い肌をさらしながら、その生け簀の縁に腰かけて青い鱗の尾びれを水面にぱしゃぱしゃ叩きつけ、鳥などより美しい声でからから笑っている。

 小さな生簀の上に腰掛ける人魚。絵画のような姿に、感嘆の声がつい明の喉元まで出かかった。

「ほら、でもあれだ。お前が百年愛せるなら考えてやるってことだぞ」

「そんなの無理だよ」

「じゃあ私も無理だ」

 人魚は生まれついての好事家であった明のひいひい爺さんが、美しさに一目惚れして西洋人から買い受けたらしい。それから随分長い間、それも生け簀の方が何度か先に寿命を迎えて代替わりし、蔵の床がコンクリートに変わり、最新式の冷暖房設備が導入されるほど長い間ここで囲っている。

 当然これは隠すべき秘密で、古い家ほど顔が利く田舎の利点を生かし代々続く彼の家はこの令和になってもまだこの事実を隠し通していた。世話は長子以外の男子と決まり、次男に生まれついた明も例に漏れずこの人魚を幼い頃から世話していた。

 ――むごいことを。

 幼い頃から、明が蔵に向かう度繰り返し背中にかけられた台詞だった。

 親戚の中にはこの風習を忌み嫌い、人魚を海へ返そうとする者が何度も現れていた。しかし生け簀の中で百年以上も飼われ、十分人の世俗に馴染んだ人魚を大海に放して果たして幸せかと反論され、また人魚の方からも「バカを言うな」とあしらわれ、反対派の彼らはいつも消沈していた。

 明はそんな人魚に恋をした。まるでそうなるのが当然のように、この人外の美しさと竹を割ったようなさっぱりした気性に惚れ込んだ。 

「私を百年愛して見せろ、その時初めて考えてやるよ」

 人魚は無茶な要望を繰り返す。薄々、わかっていた恋だった。

「……断り文句、でいいのかな」

 明はもう十七歳だったから、さすがに物事の分別がついていた。自分だって、何も思わなかった訳じゃない。顔を上げて天井を見上げる。粗末な裸電球ひとつ。生簀を見る。狭い、三メートル程度の粗末な生簀。よくもまあ、この窓のない田舎の蔵に百年も閉じ込めたものだ。

(わかってはいたけど)

 一縷の望みで愛を告げて、盛りを迎えた後に散るばかりだと、百年愛せよと無茶を言われれば理解もする。この優しい人魚はきっと優しく断りたいのだ。ここまで厳重に、一族で閉じ込めた相手に愛を乞うなど馬鹿らしいと。そう言いたいのだろう。

「閉じこめる?」

 しかし人魚の方は却ってきょとんとした様子で、じっと明を見つめている。

「え。だって、そうだろう。だってこんな狭い生け簀に、一族全員で閉じ込めて、何年も何年も秘密にして」

 明は自分のしてしまった恋とこの人魚の置かれた状況とを口に出して改めてぞっとした。分かっていたことではあるけれど頭がくらくらする。生け簀の中に閉じ込めておきながら、ここで生きることを強いながら、本当は惚れた腫れたがあったもんじゃないのに。

 ばしゃんと音がする。人魚はまた尾びれで水面を打ったらしい。

「ははは。お前もバカの側だな。これは愛に違いないだろう」

 水面に波紋が広がる。明はもう一度人魚の顔を見た。想い人は明の予想に反して恍惚とした、うっとりとした表情をしている。見たこともない満足げな表情。先程きれいだと思ったばかりのはずの顔だった。

「私は望んでここにいるんだぞ?」

 人魚は嬉しそうに笑いながら言葉を続ける。知らない箱を開けてしまったような気がして明の肝は冷えていた。彼女が嬉しそうにすればするほど胸の痛みが広がっていく。果たして彼女の言葉が理解できないからなのか、それとも自分の迂闊な恋についてなのか。人魚は変わらず美しい顔で笑っている。

 ――むごいことを。

「これこそが百年の愛じゃないか」

(壊れちゃったんだ) 

 明の心がすっと冷えるのがわかった。こちらの都合で人魚を閉じ込めているだけなのに。気味の悪い恋をしているのはこちらのはずなのに。

 この人魚はきっと、閉じ込められることが愛だとねじ曲げて受け取ってしまわないともう、どうにもいけないのだ。明は再び生け簀を見る。この三メートル四方に百年以上も閉じ込めていれば、愛の認識なんて歪んでしまうのだろう、きっと。

「私にとっての愛はこれだ」

 人魚はそう断じる。うっとりした顔で。壊れてしまった人魚、だからこの人魚は自分の恋を受け入れられないのだ。自分たちの一族が、ここまで追い込んだのだ。

「ごめんね」

 何が恋だ。

 ただもう物悲しさしか感じられなくなった明は、逃げるようにして蔵を後にした。


「フラれたか」

 生け簀の中に一匹残された人魚は苦笑すると、やがてぼちゃんと水音を立て生簀に体ごと沈める。

「あ、明め。扉閉め忘れやがった」

 秋の夜風が吹き込んでくる。外は果たしてどんな月だろうか。月などもう百年近くも見ていないけれど。――きっとそう言ったら、明はまた哀れむような顔をするのだろう。申し訳なさと理解できないものへの憐れみのない交ぜ。まるでこちらがこの百年の内に壊れてしまったとでも言いたげな。

「バカだなあ、やっぱり」

 今までにも何度か恋はされている。その度こちらの望む愛を口に出せば世話係は皆一様の顔をして悲しんで去っていく。

 こちらの言葉がまずいのだろうか。何も難しいことは言っていない。全く、そもそもの理が違うだけだ。人の一生程度の短い短い愛など人魚には不要だと言っているだけだというのに。

「百年愛せるわけでもなかろうよ」 

 あれは明治何年だったか。人魚がここに買われた当時にも、確か同じ問いをした。

「ふむ百年。なるほど、それでは一度やってみよう」

「うん?」

「子々孫々にわたって君を大切にすれば良いんだろう。百年でも、二百年でも」

 ――あの男は、一度で人魚の望む愛を察して見せた。

「全く聞かせてやりたいぞ。何が『閉じこめる』だ。勝手に憐れみやがって」

 恋を語る人間達は皆一様に、この十尺四方程度の生け簀に自分を受け入れてもらえない理由を見いだす。「自分たちが人魚を閉じ込めた故に人魚からの愛を得られないのだ」と。何を下らない。たかが百年閉じ込められることなんて慣れきっていて全く大したことじゃない。広い海にこだわりもない。

「誰が一度でも不幸だと言った?」

 ただこれが私の幸せの形というだけだというのに。皆が皆、勝手に人魚の不幸と幸せを想像して当てはめてくる。ご苦労な勘違いだ。

 初めのアイツは明治の男にしては先進的だった。だから理解できたのかそれとも「愛」の意味がたかが百年で揺らいだか。アイツは一度も人魚に触れることなく、ただ眺めて満足するような男だった。だからこそ、何とも素晴らしい愛だと受け取って、受け入れて、今に至る。

 何が憐れだバカどもが。

「おまえたちの愛の形を押し付けるなよ」

 あるいは勝手に大海に逃がそうとし、あるいは勝手に恋を乞う。

 時代が変わる度に新しくなる設備。人魚が最も美しかった頃から一切変えるなと厳命した粗末な電球。人魚が気に入ったからだ。今はLEDだとか何とかが主流で、探すのも一苦労らしい。いずれにしろアイツは人魚の求める愛を全て知り、理解し、叶えてくれた。アイツの愛の形を押し付けることはなかった。私の望む愛の形を尊重した。故にここに私を囲い、子々孫々に渡る世話を命じることで私への愛を証明し続けている。

「これは二百年コースだな、××」

 アイツの名前を小さく呟く。

 人魚は何度もの改装を経て深くなった生け簀の奥からじっと天井の裸電球を見つめて、嬉しそうに笑っていた。

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