古本の墓
秋晴れに映える彼岸花を二本手折って、本の墓に供えてやる。手向けでもあるが自衛でもあるのだ。読まれなくなって何年も経った本達は、読み手を探して人を取り込むから。
「どうか安らかに」
古書店とは名ばかりのこの店には、もはや著者名すら擦りきれたボロの本ばかりが納められている。店の大きさは家とそう変わらないし、実際住居も兼用しており数年前までは祖母が一人で住んでいた。今は私だけ。あんたはきっと優しいからと、祖母たっての生前の願いでこの店を引き継いだのだ。狭い店だから本棚の数はそう多くしていないし、乱雑にならないようにできるだけ間を開けて置いてある。ここには沢山の本があるけれど、本は大人の背の高さほどの棚に全てきっちり納めて、平積みにしている本は一つもない。古書店なんて都会でもどんどん潰れているし家業の引継ぎなんて大変なのにという周囲の声に耳を貸さなかったのは、この丁寧な本の扱い方と幼い頃から祖母の仕事に憧れていたからだった。
「このお店はね、本を供養する場所なのよ」
いつだか祖母は、引き取ったボロボロの本を丁寧に修繕しながらそう言った。私が五歳か六歳か覚えていないが、きっと生意気盛りの頃だったように思う。その時修繕していた本のタイトルは何だったか。ハードカバーの表紙が取れて糸がほつれ出ているのを、店内を見渡せるカウンターの裏側で丁寧に継ぎ合わせながら教えてくれた。
「読まれなくなった本は寂しがるの。だからこうして綺麗にして、そうして本棚に納めてあげる。そして時々は読んであげればいい。……でも、読みすぎちゃいけないよ。本の中に連れていかれてしまうからね」
片田舎の住宅街の奥だというのに、祖母の店には頻繁に人が訪れていた。それも仕立ての良いスーツを着たどこかの企業の社員らしい人が何十冊も本を持ってくることもあれば、地元の人が本を一冊持ってくることもあった。買う人はほとんどいなかったように思う。そして、その持ってくる本のほとんど全てが年季の入ったボロボロのもので、皆一様に「夢を見るんだ」と隈のできた顔で祖母に話を聞かせていた。
「じゃあこのお店は本のお墓なの」
私はいつもこの古書店が不思議でたまらなかった。ボロボロの本ばかりが持ち込まれて祖母が預かり料と共に本を預かることもそうだったし、店の中に並ぶ本棚同士の間々には小さな木の丸椅子を置いて、その上には花瓶を置き生花を供えているのもそうだった。花は白菊が多かったが、秋には店の周囲によく生えていたためだろうか彼岸花が供えられていて、その赤はやはり目を引いた。その頃も確か秋だった。本と花との不思議なコントラストは「特別なもの」として私の印象に強く残った。
「おばあちゃんは一人でお墓参りをしているの?」
顔も覚えていない祖父が亡くなって数年。私はお墓参りという概念を知ったばかりで、しかも本当に幼かったから連れ合いを亡くした祖母にそれを聞く無礼さも理解していないままそう聞いた。単純に、本をきれいにして本棚に収め、時々読んであげるというのが何だか墓参りと近しい気がしたのだ。しかし祖母は幼い私の無礼な質問に怒ることもなく、修繕の手を止めて笑いかけ、私の頭を撫でながら「あんたはきっとこの仕事に向いているね」とそれだけ答えた。
「私の供養はあんたにしてほしいものだ」
本のお墓という表現が、かつて祖父のしていたものと同じだと知ったのは祖母の分厚い手記でだった。
「噂に頼って来ましたが……、お孫さんが引き継いでくれていてよかったです。これで夢にうなされずに済む」
「お役に立てて何よりです。預かり料も確かに。……はい、お預かりします」
今日もまたボロボロの本を携えた客が一人。若い男性だった。老婆と聞いていたはずの店主が随分若く、初めは落胆したようだったが、孫が引き継いだという説明で安心してくれた。やはり彼も夢の話をした。祖母の声がする。「読まれなくなった本は寂しがるの」。皆、昔読みこんでいた本に描かれた物語の主人公となって、野を駆け、山を駆け、あるいは遠い世界で魔法を使うのだと説明してくれる。一度はボロボロになるほど読んだ本だから初めは楽しいが、その内自分が物語の世界にいるのだか現実にいるのだか分からなくなってしまうのだという。
「ありがとうございました」
本を預けてずいぶん気が楽になったらしく、その本好きらしい男性は何度もお礼を言いながら店を出て行った。まだ早い時間だ。一刻も早く預けたかったのだろう。自動扉の向こうに見える秋晴れが美しい。
「……もう大丈夫だよ」
店の外に目を遣りながら私はそう呟く。視界の端に祖母が映り、何事かを話しかけてくる。
「私がちゃんと供養するから」
遺品として祖母の手記を預かってから数年。初めは何度も繰り返し読んだその手記を棚の奥に仕舞って保管している内、私もまた祖母の夢ばかり見るようになった。夢での邂逅は、初めは無論楽しかった。色々な話ができた。しかしそれが現実へと侵食し始め、祖母から引き継いだ古書店で彼女の亡霊を見るようになった辺りで、はっと気がついた。
ここにある本たちと同じで、祖母の人生という一つの物語もきっと、寂しがっている。
先ほど預かった本と一緒に祖母の手記を取り出してくる。どちらも手垢でボロボロだ。祖母がしていたのと同じように汚れを落とし、落ちそうなページをつかまえて丁寧に継いでやる。古書店内の本棚を見渡して、良さそうな場所へ丁寧に本を納めた。少しだけ外に出て、秋晴れのもとで摘んだ彼岸花を二本、本棚の間に置いた花瓶へ活けた。
「どうか安らかに」
手を合わせる。祖母の亡霊は笑って消えたような気がした。
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