すずらんの花
鈴蘭の毒など飲んでしまえば死に至るだろうと思っていたが、友人は愛ゆえにその毒を克服したのだと言い出した。
「昔から美しいものが好きでね。死ぬときは花の毒で死にたかった」
「そうか」
「鈴蘭は美しいし、美しいと言えば鈴蘭だ。あれで死ねればなんといいだろう、しかし愛ゆえに俺は死ねなかった、鈴蘭が俺を愛したからだ」
昔は明朗快活、濶達であったはずの彼から一月ぶりくらいに葉書が来た。どうしても話がしたいと書いてあったのと、私も彼を気にかけていたので出掛けていったのだ。場所は大通りにできたばかりの純喫茶。折しも先日元号が昭和に変わり、季節はそろそろ春から夏になるという時だった。
「鈴蘭を愛し、そして愛されたか」
「そうさ。その可憐さと毒ゆえだ」
彼はここに来たときからずっと、虚ろな目でブツブツと鈴蘭への愛を呟いている。私は昔の彼を惜しみながらも、毒に侵されているような言葉を否定もせずに聞いていた。鈴蘭の愛。植物の愛。本当にそれを信じているというなら憐れなことだ。
私の気持ちが伝ってしまったのか、不安そうに目を上げた彼に合わせて私は問う。
「じゃあ君は、恋をしたのか」
「ああそうさ」
相対する彼の顔が少し明るくなる。私は彼の隣に目をやった。鈴蘭。この四人掛けの席の彼の隣には、彼が今ご執心らしい鈴蘭が鎮座していた。喫茶の中は珍妙な客たる彼をちらちら振り返る者、無関心を決め込む者様々だ。日々色んな客に対応しているであろう店主は慣れたのか無関心である。
「面白いだろう。可憐で美しい白い花、しかしそこには毒があるというから驚きじゃないか。愛らしいだけではない、そこに惚れたね。学生時代だったな、出会いは」
「そうだったな」
雄弁で、熱烈。のろけを聞かされているようで切なくなる。
「人なんかより美しいし、人のように気まぐれじゃない。こうしていつも、いつも傍に寄り添ってくれて」
「そうだな、花にしては寿命も長かろう」
「不思議なことをいう。鈴蘭に寿命はないのだよ。ないのだ、寿命など」
私はもう一度、彼の言う鈴蘭を見る。白い顔にたおやかな手。……花などであるものか。人の姿を取りながら、彼の首に手を巻き付けて笑む女は、幽鬼か異形か判別はつかなかった。店の客も、彼女が見えている者いない者様々らしい。幽霊か、幻覚か、それとも。
じろじろ観察していたせいか異形がこちらを見て自慢げに微笑んだので、私は慌てて話題を変えた。
「しかし細君のことは、その、どうしたんだ。……そんなに花ばかり誉めていても」
現実を見てほしかった。しかし、それがいけなかったらしい。友の顔は一瞬強張った後、テーブルの下に目を落として早口にぶつぶつ呟き始めた。
「何だよ、あんなやつ。……あんなやつ、あんなやつ……」
何が友の琴線に触れたのか。
「俺を置いていくなんて……、あんな、あんな……」
彼はもう、こちらを見ない。
「鈴蘭」は心配そうに、その白い手を伸ばしてますます彼に巻き付いていた。しかし口元は嬉しそうに、笑っていた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。……。すまんが塩を持ってきてくれないか」
「まあ。お葬式でしたの? 仕度いたしましたのに……」
帰宅を出迎えた女房は私の言葉に目を丸くすると台所へ駆けていった。私は息を吐くと一度目を閉じてみる。あの幽鬼のような異形の姿が眼窩にこびりついていた。何だか呪われそうにも思えてくる。
戻ってきた女房に、肩へ塩をかけてもらいながら首を振った。
「いいや。喪主があの調子ではきっと葬式は出せまいよ」
「……、でも、もう一月でしょう。初七日も、四十九日も……」
「だめだね。後追いしようと、手前で細君の育てた鈴蘭を飲んじまったのをとんと忘れてやがる。挙げ句の果てに『あんなやつ』と来た」
確かに急なことではあったのだ。友の細君は、小さな地震の後急にやって来た押し込み強盗みたいなのにやられてしまった。器量良しだった彼女の絶命した顔は凄絶で、愛妻家だった友は帰宅と同時にそれを見て途端に狂ったらしい。
残った理性で既に死んでいた細君を無理矢理病院に連れていき、警察とあれこれ話し、それも何とか終わって帰宅した後、何を思ったか彼女が前栽で育てていた鈴蘭の花を口に含み飲み込んだ。彼女の愛した物で、彼女の愛で死にたかったらしい。そして今度は彼自身が即座に病院にかつぎ込まれた。何でも彼の様子にただならぬものを感じていた警官が後をつけてきていたらしく、すぐに対処できたと言う。
「突然でしたもの。仲のいいご夫婦でしたし。気を病むのも仕方ありませんわ」
ジャケットを妻に預け、箪笥のある部屋へ向かう。
友は一命を取り留めたが、却ってそれが一層彼を狂わせた。「彼女が殺された」とも「置いていかれた」とも思いたくなくて、彼女の忘れ形見の鈴蘭を愛でるようになったのだ。
「おれは平気だよ」
安心させるようにして、妻に答える。何だか、妻に心配されているような気がしたのだ。しかし妻は「例え押し込み強盗に殺されることがあっても」と取ったらしかった。
「まあ。ひどい人」
「……。ひどいのは君だろう。おれに、君が死んだらあんな風になれとでも言うのかい」
「それは。……答えようがないじゃありませんか」
強く愛されたかったらしい妻は少し不満そうだった。ジャケットを衣紋掛けにかけて、浴衣を私に着せかけながら、やがて「でも」と明るく続ける。
「ねえ、でも、きっと良くなりますわね」
「え?」
「だってそうでしょう。きっと良くなって、もう一度幸せにならなきゃ、拓郎さんも鈴さんも、……不憫で……」
言われて友とその細君の顔を思い返す。友はやつれる前は男らしい顔つきにがっしりした体型の美丈夫で、細君は色白で目鼻立ちのはっきりした器量良しだった。仲の良い夫婦で、学生時代、鈴に惚れ込んだ拓郎が熱烈に口説いたのだと何度も聞かされた。
本当に、熱烈だったらしい。だからこそ、友は未だに彼女に執着して、執着するあまり壊れてしまったのだろう。悲しくなる。
(確かに、きっと鈴さんもそんなことは望んで――)
「あっ」
「何です」
「いや、何でも」
気になるじゃありませんかと食い下がる妻の言葉を笑顔でかわしながら、つくづく思う。
(……恐ろしいものだ、愛というのは)
自分の考えが浅かったようだ。
鈴蘭と称された異形の顔はどことなく、友の細君に似ていた。
そしてその顔は、拓郎が鈴蘭への愛を、そして花の毒への愛を口にする度、嬉しそうに笑っていたのだ。
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