​反故紙

 スーパーで視線を交わし互いに「あ」というような表情を浮かべた。

 しかしその時はそれぎりで、声をかけることもなければかけられることもなかった。面識のない人間同士だから当然である。

 S子の方でも視線の合った理由を考えてはすぐに投げ出したばかりで、その日は夕食の買い物を終えて帰った。

「あ」

 彼の目を見て感じた懐かしさの理由に思い当たったのは、家で米を研いでいるさなかのことである。

 上背が高く筋肉質で、黒の長い髪を後ろで一つに縛り、なおかつその髪型を不自然に感じさせない程度の顔貌。

 よく知っている。厭世的ではあるが我が強く、S子には扱いきれないような人物。相違点があるとすればスーパーで会った彼は眼鏡をかけていたことくらいだろうか。

 彼の姿はS子が数年前に書きかけてやめた物語の主人公によく似ていた。

 あはは、とS子は笑う。何というくだらない既視感だ。想像上の人物と似ているからとじろじろ見るなんて。そう言えば彼の方も驚いていたな。もしかしたら彼の方もまた何かを作っていて、その中に出てくる人物に自分が似てでもいたのだろうか。

 そんな想像をしながらその日は夕食を平らげ、S子は早々に眠りについた。​


 その夜S子は夢を見た。どこか見知らぬ会社で彼は入社の挨拶をして、S子のつけた名を名乗る。

 そしてあいさつの中で「なかなか自分の物語が進まないから自分で進めに来てしまった」と笑い、周りも納得したように頷いている。

 辺りを見回してみると、全てS子の知る人物である。「人物」は正しくないのかもしれない。S子の作り上げて、そして途中で反故にした物語の人物たちが揃っている。

 彼は続ける。

「皆様ご存じの彼女にこの間偶然会ってしまいました。どうか皆様は私のような失敗をなさらないでくださいね。せっかく終わりのある物語を得られたのですから」

 新入社員にしては偉そうな挨拶が彼によく合っているなと思いながらS子は目を覚ました。​


 S子は翌朝の出勤前に、彼の物語を綴ったファイルを開いてみた。馬鹿馬鹿しいとは思ったが、やはり一種の予感があった。

 数年前だったはずの更新日が昨日に変わっている時点で予感は確信に変わった。

 テキストファイルの中から、彼の登場シーンだけがごっそりと消えていた。

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