第39話 近付く距離

 体育館にエアコンが設置されたのは数年前のことらしい。

 中学生時代の高校見学で誰かがそんな説明をしていたのを覚えている。この学校なら暑さから解放されて剣道ができる。

 そんな風に思っていた時代が僕にもありました。


 今日の女バスは外で練習するとのことで里奈りなとは一緒じゃない。代わりに仁奈になさんと移動するほど神経は太くないので気が進まないながらも一人で体育館までやってきた。


 蒸し暑い渡り廊下を歩いてきたせいか、重い扉を開けるとひんやりとした空気が一気に押し寄せてくる。


 一瞬の清涼感だけがこの時期の救いだ。


「何もしなきゃ涼しいんだよなあ」


 重い防具を付ければ体に直接冷風は当たらないし、面の中に熱はこもるし、竹刀で叩かれれば痛いのは季節に関係ない。


 中学の時に思い描いていた剣道部とは全然違って、多少はマシになったとはいえ夏の剣道は地獄そのものだ。


 辺りを見渡すと仁奈になさんの姿はまだない。同じクラスで同じ部活なんだから絶対にどこかで遭遇するのに、ちょっと安心している自分がいる。


純浦すみうらお疲れ。早く着替えろ」


「はいっ!」


 一時は僕への嫉妬に駆られていた部長もすっかり落ち着きを取り戻し普通に接してくれている。

 もし仁奈になさんとキスしていることがバレたら今度こそ殺されかねない。

 

 日常生活を送っているだけなのに、ところどころでキスの記憶が蘇り胸が苦しくなる。


「「「きゃー!! 爽井さわいくーん!!」」」


 黄色い歓声が聞こえるだけで体育館のどこかに爽井さわいくんがいるのだと教えてくれる見知らぬ女子達。

 ちょうど更衣室から出てきたようだ。


「よっ! 昨日はごめんな。迷惑かけて。でも楽しかったよ」


「うん。こちらこそ」


 その楽しい記憶が全然頭に残っていないけど、彼の爽やかな笑顔から察するに僕は特におかしな言動をしていなかったようだ。

 空気をぶち壊すようなことをしていないだけ良しとしよう。


「それと、ありがとな」


「え?」


「いや、俺と仁奈になが一緒にいられるように気遣ってくれて」


「???」


 二人が一緒にいられるように? あれ? 僕なんかちゃっちゃいました?

 チート系ラノベの主人公みたいな言葉が口から出るのを我慢して、必死に昨日のことを思い出そうと試みる。


 が、頭の中に浮かぶのは仁奈になさんとのキスばかりで二人の恋のアシストをした覚えは全くない。

 きっと里奈りなの根回しに僕が無意識に乗っかっていただけだ。そうに違いない。


「っていうか呼び方」


「あっ! しまった。一度フラれてるからちょっと遠慮してたんだけどさ、実は頭の中では仁奈になってずっと呼び捨てにしてて、それがポロっと出ちゃったんだ。仁奈になはそれで良いって言うからつい」


「そっか。まあ彼女を呼び捨てにするのは普通なんじゃないか」


「ばっ! まだ彼女じゃねーよ」


「まだ……ね」


「なんか純浦すみうらにそういうイジりされるとムカつくな」


「いでででで」


 バスケで鍛えられた腕にがっちりと首を押さえつけられる。

 声に出してオーバー気味にリアクションをしてみたけど、実際にはほとんどダメ―ジはない。


 陽キャ的な絡まれ方に戸惑いつつも、爽井さわいくんにもキスの件はバレていないみたいでホッと胸を撫で下ろした。


「まあ、俺もみんなの前では呼び方に気を付けないとな。純浦すみうらの心配もわかった気がする」


「だろ? 呼び方ひとつで関係を探られるんだから」


「さすが彼女持ちのパイセンっす」


「やめろやめろ。爽井さわいくんの方がモテるんだから恋愛ではそっちが先輩だよ」


「いや、彼女いない歴=年齢だから。純浦すみうらパイセン、マジリスペクトっす」


「絶対尊敬してないだろ」


 爽井さわいくんくらいのイケメンでも彼女ができたことないんだから、僕が里奈りなと付き合っているのはすごく幸運なことだと思う。


 それに僕は爽井さわいくんが想いを寄せる仁奈になさんとキスをしてしまった。まだ付き合っていないとはいえ、これを彼が知ったら僕に対して怒りの感情を抱くはずだ。


 こんな風に明るく接してくれる友達にどんどん後ろめたい気持ちが膨らんで押し潰されそうになる。


「あ、仁奈になだ。っと、呼び方は気を付けないとな。クラスは別々になっちゃったけど体育館を使う部活で良かった。な? 純浦すみうら


「うん。そうだね」


「また4人でどこか遊びに行こうな。じゃ」


 僕の首を解放すると爽井さわいくんは仁奈になさんの元へと駆けて行った。

 仁奈になさが笑顔で迎え入れると2階からバスケ部の活動を見守っている女子から不満の声が漏れる。


「あー……やっぱそういう感じか」


 里奈りなと付き合い始めた頃と同じ、いや、それ以上に嫉妬にまみれた重い空気が体育館を覆い尽くす。

 それを察したのか仁奈になさんは爽井さわいくんの元から離れよう駆け出した。


 けど、爽井さわいくんは彼女の腕を掴んだ。

 

 仁奈になさんも驚いたように目を見開いて、腕を掴んだ本人も自分の咄嗟の行動に驚きを隠せない表情をしている。


 爽井さわいくんはそのまま仁奈になさんと一緒に走り出して体育館から飛び出していった。


 ザワつきは2階の女子だけではなく剣道部とバスケ部にも広がっていて部活どころの空気ではない。


純浦すみうら。なにか知ってるか?」


「いえ。僕はなにも……」


「だよなあ。さすがに彼女の妹のことはわからんよな」


「はい」


 いぶかし気な部長に適当な返事をする。

 もっと深堀りされるかと思ったけど、周りから見て僕と仁奈になさんはそこまで仲が良いとは思われていないようだ。


 彼女の妹のことはわからんよな。


 部長の言葉が頭の中で繰り返される。

 膝枕をしてもらったり、お義兄にいちゃん呼びをしてきたり、内緒でキスをしたり……。


 たしかに仁奈になさんのことはよくわからない。

 里奈りなと付き合い始めてから一緒に過ごす時間が増えたのに、余計にわからなくなってしまった。


 ただ、なんとなく一つだけわかることは、仁奈になさんと爽井さわいくんは恋人になるのだろうということだ。

 恋愛初心者の僕でもわかるくらい、二人はそんな雰囲気をまとっていた。

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