第36話 練習

「ごめんね急に」


「ううん。でも、どうして」


「ショーが始まるタイミングで純浦すみうらくんを連れ出したら二人きりになれるって、突然思い付いちゃって」


 僕らの手はまだ繋がれたままだ。

 簡単に振りほどけそうな弱い力で結びついた手を、僕はそのままにしている。


「お姉ちゃんには、爽井さわいくんを探してたことにしておこう」


「じゃあ、違うんだ」


「うん。爽井さわいくんを探しに行くわけじゃない。もし出会っちゃったらそれで終了」


 仁奈になさんは爽井さわいくんの連絡先を知っているんだからわざわざ探す必要はない。

 どこか適当な場所を待ち合わせ場所に指定して、そこで待っていればいずれ再開できる。


 里奈りなから仁奈になさんを頼まれたのは本当のことなのに、今こうして手を繋いで館内を歩いているのは背徳感でドキドキしていた。


純浦すみうらくんって、お姉ちゃんともうキスしたの?」


「そ、それは……」


「まだだよね。お姉ちゃんって意外と奥手だから。あんなに大胆なことできるのにね」


 くすくすと笑う仁奈になさんはいつもと同じように見えるし、膝枕やお義兄ちゃん呼びをした時のような不思議な妖艶さをまとっているようにも見えた。


 一つ言えるのは、このまま二人きりなのはマズいということだ。


 すでに彼女公認のシチュエーションを飛び出してしまっている。

 早くこの場から逃げ出したい。その気持ちでいっぱいのはずなのに僕は仁奈になさんの手を離せなかった。


「わたしもね、キスってどうしたらいいかわからないんだ」


「そうなんだ」


「お姉ちゃんもきっとそう。だから、わたしは自分に自信を持てなかった。教科書もなければ練習もできない。そんなものをお姉ちゃんよりもうまくできるはずがないって」


 恋愛に対して里奈りなと同じことを言うのは本当に双子らしい。

 里奈りなのことを知ると、同時に仁奈になさんのことも知れる。


 同じところ、似ているところ、違うところ。


 どんどん二人のことを知っていく。


「わたし、たぶん爽井さわいくんと付き合うと思う」


「え?」


「ビックリした? でも、うん。お姉ちゃんがそういう雰囲気を作ろうとしてるし、爽井さわいくんとならって思えるから。きっとそうなる」


「そっか。じゃあ今度は本当のダブルデートだね」


「わたし達は純浦すみうらくん達みたいに大胆なことはしないからね?」


「妹の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいな」


「そんなこと言って、お姉ちゃんと密着してる時の純浦すみうらくんすごいデレデレしてるよ?」


「マジ?」


「うん。必死に取り繕ってるのが余計にみっともないくらい」


「そんな……」


 まさか周囲からそんな風に見られていたなんて。

 体は正直とはよく言ったもので、自分の情動が表情にしっかり出てしまっていたのか……股間はコントロールできなくても顔は我慢できてると思っていたのに。


「でね、純浦すみうらくん。そんなお姉ちゃんにカッコいいところ見せたくない?」


「うん。見せられるものなら」


 勉強でも運動でも敵わない現状でそれは難しい。だからこそ僕は努力している。

 

「お姉ちゃんとのファーストキスをリードできたら、カッコよくない?」


「ん?」


「練習、していいよ」


「えーっと……」


 彼女との初めてのキス。お互いに未経験のことをリードできればそりゃあカッコいいさ。

 でも、失敗しながらちょっとずつ前に進んでいく。僕らの恋愛はそういうものだと決めたばかりだ。

 

 うまくいくに越したことはないけど失敗も二人の思い出になる。


「練習ってどういうこと?」


「だから、練習。わたしと、キスの」


「…………」


 言葉の意味はわかるのに耳から入ってそのまま通り抜けていくような感覚。

 一緒に勉強をしたり、剣道の稽古をするのとは違う。


 触れ合ってしまえば一回は一回。やり直しなんてきかない。

 だからこそ思い出になる。


「わたしはまだフリーだし」


「いや、僕は彼女がいるんだけど」


「お姉ちゃんとの初めてのキスがうまくできたら、純浦すみうらくんにとっても嬉しくない?」


「そうだけどさ、練習っていうのは違う気が」


「わたしはね、彼氏との初めてのキスはちゃんとできたらいいなって思う。もしかしたら爽井さわいくんには経験があるかもしれない。そしたら、わたしだけが失敗しちゃう」


爽井さわいくんはそういうの気にしないと思うけど」


「わたしが気にするの。なんでもうまくできるお姉ちゃんに、純浦すみうらくんがキスでマウントを取ってほしい。わたしのワガママ」


 もはや話が繋がっていない。興奮しているのか錯乱しているのか肩で息をする姿は見ていて痛々しい。


「ちょっと落ち着こう。深呼吸して」


「落ち着いてる。わたしは、いいよ。あとは純浦すみうらくんが決めて」


「練習はお断りしておくよ。里奈りなと一緒に、失敗しながら進んでいく」


「ファーストキスじゃなくなっても、お姉ちゃんとの初めてはなくならないよ?」


「…………」


 今の仁奈になさんを一人にしておくのは心配で、この場から一刻も早く逃げ出したくてもそれができない。

 里奈りなから任されたというのもある。それに、仁奈になさんの言葉一つ一つが本心ではとても魅力的に感じていた。


「正確に言えば、わたしもお姉ちゃんもファーストキスは済んでるの。小さい頃、一緒に遊んでる時に興奮して唇がくっ付いて、その時はキスしちゃったなんて意識は全然なくてただの思い出になってるけど」


「そういうのはノーカンなんじゃないかな」


「だったら、わたしとのキスも練習だからノーカンじゃない?」


「そんなわけないでしょ」


 笑って誤魔化しつつも、練習ならノーカンなんじゃないかという考えが少しずつ僕の頭を支配していく。

 相手は同じ顔を持つ彼女の妹。練習相手としては申し分ない。


 一回練習したくらいで彼女をリードできるとは思えないけど、未経験と一回でも経験したのとでは雲泥の差だ。


 里奈りなをキスでリードできるカッコいい彼氏になりたい。

 そんな想いが僕の判断力を狂わせる。


「……練習、なんだよね」


「うん。本気じゃない。もちろんわたし達だけの秘密にはするけど、浮気とかでもない。お姉ちゃんを、純浦すみうらくんの彼女を喜ばせるための、練習」


 気付けば仁奈になさんの肩を両手で押さえていた。


 周りに人はいない。居たとしても薄暗くて表情までは見えないし、カップルが隅でイチャついているくらいにしか思われないはずだ。


 それっぽい言い訳が次々に頭に浮かんでいくと理性で歯止めが利かなくなっていく。

 

 早くこの唇と重なり合いたい。そんな獣のような欲求がみるみる膨れ上がる。


「そんなに目が血走ってたらお姉ちゃんもドン引きだよ?」


「ご、ごめん」


「よかったね。わたしと練習しておいて」


「ありがとう」


「こちらこそ。わたし、お姉ちゃんよりも素敵な彼女になるから。爽井さわいくんに嫉妬しないでね?」


「僕だって素敵な彼氏になるよ。この練習のおかげで」


「でも、鼻息荒い」


「だって、彼女と同じ顔だし」


「ふふ。お姉ちゃんのことを思い浮かべながらキスしてね。そうすれば」


 仁奈になさんの言葉を待つのがじれったくて、口を塞ぐように唇を重ねた。

 ファーストキスはレモン味なんていうのは迷信で、コーヒーみたいな苦みが口の中に広がっていく。


 本物の彼女とキスをしたら甘酸っぱい味がするのだろうか。


 だとしたら、このキスは本当にノーカンにしてもいいのかもしれない。

 その答えが出るまできっとモヤモヤが残り続けるとわかっていても、僕は今この瞬間の喜びを一生忘れないだろう。


 初めて告白して、そしてフラれた女の子とするキスの練習は自分が想像していたよりもうまくいった。

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