医学博士 宮野

満梛 平太郎

憂鬱な女

憂鬱な女

 長雨の降る6月、私は玄関を開けて、雨の調子を確認しました。

 雨はまだまだ止みそうにありません、そのせいなのか、ふと、私はここ何十年の人生について考えてしまったのです。

 

 そして、何かに誘われるように、軽自動車に乗り込むと、海の方へ車を走らせました。

 

 雨は次第に強くなってきましたが、ワイパーゴムは交換したばかりで、気持ちよく雨を切ってくれるので、2代程型落ちしたシルバーのハイトワゴンでも、十分安心して、悪路を進んで行けたのです。

 

 勢いに任せた冒険に見えても、後々のことを考えて、パート先へは欠勤の電話を入れておきます。

 

 これは、ほんの数日間の私の小旅行の物語…


 それは、まだ私の若さが幾分か、おおっぴらに残っていた頃です。

 その頃は、夫も元気で益荒男という言葉がふさわしい時期だったと思います。

 朝、二人は共に仕事に出掛け、帰宅するとすぐさまお互いを求めあい、思い付く限りの欲望を試しては絶頂し、果てる。

 互いの全てを受け入れ、許し、与える、肉体のみならず、まるで心と心も溶け合い、全てが同化した状態でした。

 

 精神世界でもひとつになれた喜びは、なんとも言えない奇跡的な瞬間で、自分がこの世界よりも遥かに大きな存在になり、自分自身が宇宙そのものになった、とでも云えばいいのでしょうか。

 それ程までに、感覚は研ぎ澄まされていました。

 私達は、吐き捨てるほどの喜びを、謳歌していたのです。


 雨は弱まり、薄曇りの中、今度は小雨の出番となったようです。

 私は、思い出の中と街中を抜けて、田畑の続く田舎道にやってきました。

 信号機のある交差点を、カチッカチッとウインカーを点けて、右折し、少し走ると山道に差し掛かります。


 小さな山の割には、急な勾配とRのキツイカーブが幾つかあり、運転の苦手な私には、難所といった印象です。

 

 山道を越えると、開けた土地が広がっています。

 ここから海までは、一本道で、点々と建ち並ぶ、漁師か農家の家々を横目に進んで行くと、やがて前方方向に松林が見えて来るのです。


 海はもう、すぐそこです。


 海風が雨を吹き飛ばしたのか、私が晴れ女なのか、理解はできないけれど、海沿いの公共駐車場に車をとめると、雨は上がり、雲の切れ目から、所々太陽が差し込んできました。


 まばらな日の光が、海に照射され、幻想を思い描くにはぴったり、といった感じです。

 

 私は、海の見渡せるベンチに腰掛けました。

 

 「ふう、何やってるんだろう私、期待しすぎなんだよなぁ昔から…昔かぁ…戻りたいな、あの頃に…」


 海原を眺め、吐露した言葉は、憂いの中にある現状を受け入れて生活をする、清貧な年増の幸福が、チアノーゼ状態であることを露見させてしまったようで、少しばかり、気恥ずかしい思いがしました。


 私は今日まで、莫迦げた夢想を押し殺して、生きてきたことを、恥じたりはしていませんが、絵に描いたような、低所得者層の生活に、ほとほと嫌気がさしてしまったのです。

 

 今日の行動は、世間体という目に見えない圧力から、不落だった私が、私のために起こした革命。

 

 どうやら、奇跡は、このような人間を放っておけないようでした…


 「あーあ、そろそろ帰ろう、アイスクリーム屋やってるかな」

 

 諦めた途端、甘い物が食べたくなって、車に戻ろうとすると、大粒の雨が降ってきて、先程の晴れ間が、嘘のように、空は一瞬にして黒く、厚い雲に覆われたのです。

 昼間とは思えないほどの暗がりに、怖ささえ覚えました。


 「うわ、最低、びしょ濡れだ」

 

 濡れたまま車に乗るわけにもいかず、途方に暮れて、東屋で雨が弱まるの待っていると、一台の軽トラックが、東屋に横付けして、停車したのです。

 

 「おう、お前さんどうした、大丈夫か?」


 「えぇ、大丈夫です、雨が弱まるまで待っているだけですから」


 「そうか、ならええんだがね、海は急に荒れちまう、そうなったらこの辺りだって安全とは言えねぇんだ、十分気をつけるんだよ」


 「はい、ありがとうございます」


 プーッとクラクションを鳴らし、立ち去る人の良さそうな老人は、漁師だろうか、荷台には、網やブイなどが積んであった。


 「いい人だなぁ、仕事終わりで帰宅途中ってところか、でも雨だし何か別の用事かも」


 老人のあれこれを、想像して楽しんでいると、今度は自転車に乗った、まだ幼い男女の二人組が、雨宿りのために東屋にやってきた。


 「わー、やべえびしょびしょだ」

 

 そう言った男の子は、中学生くらいだろうか。白のワイシャツと、黒いスラックスが雨で濡れて、肌に張り付いている。

 

 「あ、すみません、雨が強くて。少しここで待たせてください」


 礼儀正しく、そう言った女の子の方は、気が利いていて、しっかりしていそうだけれど、ハイソックスとホットパンツ姿は、いかにも小学生、といった感じだった。


 「大丈夫よ、気にしないでね、わたしも雨宿りしているの」


「おばさん一人?なんでここにいるの?」


「ちょっと、お兄ちゃん、失礼だよ!」


 遠慮のない質問に妙に癒される。


 「いいのよ、気にしないで、そうね、なんでかしらね、おばさんにもよくわからないの、あなた達はなんでここに?」


 「なんだ自殺とかそういうのかと思った、おばさん元気そうに見えないし、おれ達は家がこの先だから、別に普段と変わんない、近所だから」


 もっともな答えだった、彼らにしたら、私が余所者よそものであったのですから。


 「そう、ご近所さんか、二人は兄妹みたいね、仲良いんだね、私も娘が一人いるの高校生なんだ」


 「別にそんなの聞いてないし、おばさんなんか怖いよ、オバケっていうか暗いし、おれ空手やってて強いんで気を付けてね」


 そう言うと、兄は妹を守るように立ち上がると、空手の構えで威嚇するのです。


 男の子はヒーローになりたいって感じで、私は少しワクワクしてしまい、好奇心から来る軽い気持ちに任せ、少し揶揄からかってやろうと目を見開くと、無言で二人に向かって、ゆっくりと近づきました。


 その姿が少年には、女殺人鬼にでも見えたのでしょう。

 私も考えが甘かったのです、男の子の腕力を見縊みくびっていたのではありませんが、顔面に一発上段の正拳突きをくらって、卒倒してしまいました。


 その後のことは、よく覚えていませんが、気が付くと、私は布団に寝かされていました。

 

 襖を開け放った隣の部屋では、先程の兄妹と軽トラックの老人が、心配そうに座って何やら話しているのですが、私はおかしなことに体が動きません。

 口も動かせず、言葉すら発せないという有り様です。

 しかし、目と耳だけはしっかり機能しているらしく、彼らに視線を送ってみました。


 すると、妹が気が付いたようで、兄と老人を連れて枕元まで来ると、三人とも立ったまま私を凝視しています。

 私は言いようのない恐怖の中、動かぬ体を必死で動かそうと試みるのですが、全く動きません。

 やがて、それを見かねたのか、老人が歪んだ低い声で話し始めたのです。

 

 「お前さん、諦めてくれ、うちら家族はなんも悪くねぇ、聞けばお前さんから手を出したみたいだが、そんなことおらには関係ねぇ、今お前さんがこんな状態になっちまうのが悪いんだで、ただな、おらんとこの村には腕のいいドクターがおるんでな、安心して待っとれ、ほれ、マサルも少し励ましてやれ」


 「おばさん、さっきはごめんな、でも安心してくれ、ドクターが助けてくれるんだから、きっと前より楽しい人生になるよ!」


 「こらっ、マサルっ!あまり偉そうな口をきくんでねぇ、おまえがきっかけでこうなったんだ、少しは反省しとかねえか!」


 「ごめん、じいちゃん」


 どうやら三人が、祖父と孫の関係であることはわかった、それにしてもドクターとは物騒で仕方がない。

 救急車でも呼んでくれた方が、よっぽど親切ではないのかと考えても、もう遅いようです。

 

 なぜなら、がらがらと玄関を開けて、白衣の眼鏡の男がやってきたのですから。

 

 男は老人に丁重に迎えられると、一礼して私の隣に座りました、そして私の目を見てこう言うのでした。

 

 「あなた私の声が聞こえますか?聞こえたら瞬きしてください」


 意外にも、男は大柄の割に甲高い声で、少しだけ驚きましたが、その問いに対して、私はぱちぱち、ぱちぱちと何度も瞬きをして、応えたのです。


 「ありがとう、わかりました、私は宮野と言います、医者ではありませんが医学博士でしてね、なになに、怖がることはありません、簡単な手術ですよ誰にだってできますから」

 

 私は宮野の佇まいや話し振りから、直感で、これはもう助からないと感じました。


 それは何故か、感覚的で確実性には乏しいのですが、私にはこの宮野という大柄な男から、人間らしさが微塵も感じられないのです。

 

 大袈裟でなく「無」という一字で、彼を表現できるでしょう。

 宮野は淡々と落ち着き払って、話しかけてきます。


 「では、幾つか質問です、瞬き1回はYes、2回はNo、3回はどちらでもない、それでは準備はいいですか?」


 私はゆっくり一回瞬きをしました。


 「よろしい、意識はあるようですね」


 そう言って、宮野が使い込んだ手提げ鞄からメモ帳を取り出していると、マサルの妹が茶托ちゃたくに乗せた、お茶とおしぼりと一緒に、私の免許証を持ってきました。


 「うん、ありがとう、良い子だね、下がっていいよ」


 宮野は、おしぼりで手と顔を拭くと、免許証を取って隅々まで確認しました。

 外からは、軽トラックのエンジン音が次第に遠ざかって行く音が聞こえます、その音が完全に聞こえなくなると、宮野の質問が始りました。


 「では始めましょう、まずはあなたの名前は高藤 真由美で間違いないかな?」


 ぱちぱち、私は敢えて2回瞬きをしました。


 「ほう、そうですか、では次の質問です、あなたは女性ですかな?」


 ぱちぱち、私はこれにも2回の瞬きで答えました。


 「ふむ、ではあなたは永遠の若さを手に入れたいかな?」


 ぱち、私は1回で答えました。


 「ええ、そうでしょう、誰だって老いたくはない、では次の質問です、と、その前にいい加減この格好にも疲れました、少し失礼しますよ」


 宮野はそう言うと白衣を脱いだ、白衣の下は黒いTシャツで、前面に「変化する力」の白い文字が毛筆の縦書きで書かれていたのです。


 「はは、これはね、自分への鼓舞も兼ねてのチョイスでしてな、まぁ気になされるな、では続きと行きましょう」


 この後の質問と答えは、以下に列記しておきます。


Q.海は好きか?

A.No


Q.魚は好きか?

A.Yes


Q.子供はいるか?

A. No


Q.夫を愛しているか?

A. No


Q.来世でも今の自分に生まれたいか?

A. No


Q.神を信じるか?

A.Yes


 この他にも、幾つもの質問をされたました、ですが、宮野の真意が何処にあるかは不明です。

 ただ、家族や海や生命についての質問が多い、ということは私でも分かったのです。


 さて、ここに来てどれくらい経ったのでしょう、私は暫くこの部屋の天井と壁、襖の向こうの隣の部屋と、更に先の玄関という光景しか見ていません。

 目元しか動かせなければ、手に入る情報は当たり前に少ないのです。

 

 目を閉じて、聴覚に頼っても人工的な音など聴こえません、ここが自然豊かな人里離れた場所である事は、確かなようです。

 

 質問の後で、宮野は私に水を飲ませてくれました。

 そして、また白衣を着ると、玄関の方へ行って、右に折れると私の視界から完全に消えてしまって、がさがさ、ガチャガチャと何やら準備をしている音が聞こえるのです。


 時折、ジュッという、熱した鉄を水につけたような音がするので、私はそれを手術用のメスなどの類いの道具だと推測し、これから体を切り裂かれることの恐怖を、少しでも緩和させようと、目を瞑り意識を無くそうと、努力をしましたが駄目なようです。


 いっそ死んだ方がまし、そう思えても死ぬ事だってできません、私は諦めて、宮野を待つしかないのです。


 ぽっと玄関に灯りが灯ると、手術着に身を包んだ宮野が、大きな長方形の道具箱を持って私の横に置いて、また玄関のところまで行って、今度は、消毒薬やガーゼなどを持ってきて道具箱の隣に置くと、部屋の電灯と無影灯のスタンドライトで、私を照らしました。


 宮野は準備万全といった様子でした、そして甲高い声で「サナエさんこちらへ来てください」と言うと、マサルの妹が手術着を着てこちらにやってきました。

 

 サナエは助手のようです、今まで気付きませんでしたが、どこか別の部屋で待っていたのでしょう。

 私はあまり驚きはしませんでした、其れよりも、早く手術でも実験でもして、この状況から、解放されることを期待していたのです。

 

 生と死の狭間、自由の効かない身体的不自由という葛藤、先の見えない恐怖の極限まで追い詰められた私は、程なくして壊れました。

 

 正常な思考が瓦解した瞬間でした、宮野のは其れを待っていたかのように、頭部を専用の器具で固定すると、私の見えない位置に置いてあった心電図や血圧計など、様々な医療機器を取り付けたのです。


 先程まで寝ていた場所は、電動の手術台だったようで、グーンと宮野の動き易い位置まで調節すると。助手のサナエは部屋の襖を全部閉め、手指を消毒し、道具箱を開いて宮野の指示を待っています。


 機は熟し、宮野は慣れた手つきで私に酸素マスクを装着し、全身麻酔のため点滴注射を行いました。

 そして、私は意識を無くしたのです。


 一方、宮野は此処からが本番です、彼はガリガリ、ガツガツ、ウィーンウィーンと、肉や骨を切ったりえぐったりする音で、音楽を奏でながら手術を行います。

 其れが、なんとも言えない美しい響きで、サナエは勿論の事、意識の無い私ですら、心地よく聴き入ってしまうのです。

 宮野の才能は、異端過ぎて理解し難いですが、彼が天才である事に疑いの余地はないようです。


 時は揺らめき、どれくらい経ったのか、薄らとした記憶はありますが、思い出せません。

 すごく昔のことのようです。


 今、私は泳いでいます、上を見上げれば太陽が拡散して、光が揺らめく細波が無数に広がり、下を見れば色とりどりの魚達や、海藻が重なり極彩色の楽園が繁栄しているのです。


 この世界では、私に行けない場所などありません。

 昼も夜も気にせずに、ただ泳いで疲れたら何処か静かな場所で眠り、起きたら、また好きなだけ泳いでいるのです。


 私は昔、人間だったようですが、今では何も思い出せません。

 けれど、ひとつだけ言えることがあります。

 

 それは今が最高に楽しい、ということです。


 バシャーンと海面を突き抜けジャンプすると、遠くの浜辺で、大柄な眼鏡の人間が立っているのが見えました。

 

 その男が着ているTシャツには、「変化する力」と書いてあるのでした。

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