第二週「おとを、つくる。」
六日目「山城さんのメール」
2021年7月12日8時00分、ワンダース・ハイツにて。マリトッツォを口に入れた時、山城さんからメールが来た。彼のメールはいつも突然だ。予告なしに突拍子もないことを送ってくるから、混乱する。
「どれどれ……」
私がスマートフォンを見ようとすると、夫がティッシュを差し出してこう言った。
「彩乃、こぼすよ」
慌てっぽい私を助けてくれるのは、いつも夫である。あまり周囲には理解してもらえないが、いわゆる仕事の虫ではない。家事はむしろ夫の方がよくやっているのではないか疑惑さえある。彼は一人暮らしが長かった。恋の経験も多かったかもしれない。
「ごめん、後にするわ」
近所のパン屋で買ってきたマリトッツォは美味しかった。朝にしては豪勢すぎた感も否めないが、たまには良いだろう。どうせ、夏で体重は落ちる。
やっと食べ終わり、スマートフォンを開くと、そこに綴られていた言葉に思わず声を上げてしまった。
慌ててワンピースを取り出し、指定されたカフェへ向かう。山城さんからのメールは、新曲を作ってほしいという依頼だった。それにしても、あまりに短すぎる。コライト前提だとしても、私は職業作家ではない。ただの演奏家だ。音楽理論や作曲技法は学んだけれど。とりあえず、抗議しなければ。
カフェに着くと、山城さんはにこやかに私を待っていた。
「山城さん、おはようございます」
「おはよう。お待ちしておりましたよ。まあ、座ってください」
席に着き、数十秒。店員がやって来る。山城さんは私の好きなカプチーノをすでに注文していた。不思議なことだが、彼は人の好きなものをよく知っている。誕生日にはちょっとした贈り物をいただくのだが、その贈り物はいちいち好みに合うもの。だから、憎めないんだけども。
「山城さん、いくらなんでもこれは無茶ですよ」
そんな彼のペースに持って行かれないよう、私は開口一番にあの話題を切り出した。
「僕も無茶だとは思ったんだけどね。理由があるんだ」
山城さんは私の詰め方に困り顔だった。だが、彼の顔を見ると、よほど差し迫った理由があるのだと推測できる。
「僕がお世話になっているプロデューサーがアイドルソングの作り手を探していてね……」
ここまで言うと、彼は突然小声になった。
「正直、クラシックでずっとやってきた僕には人脈がなくて、一番聴いてそうかな……っていう理由で君を推薦したんだ」
あまりにもいい加減な理由に、私は拍子抜けした。
「そんな理由で私を推薦しないでくださいよ。確かに、好きだけど」
とは言いつつ、内心嬉しかった。少なくとも、山城さんはお金に汚いタイプではない。ひとまず頑張ってみようか。
「……受けてくれないよね?」
私はため息をつきかけた山城さんの手をぎゅっと握った。
「引き受けます。やらせてください」
私の声に、山城さんはアッと驚いた様子で喜んだ。
「その声を待っていたんだ」
若干裏返り気味の声で私の決断を歓迎すると、山城さんは諸条件などをこちらに伝えた。
「じゃあ、これからよろしくね」
「よろしくお願いします」
カフェを出ると、山城さんからこんなメールが届いた。
「久保さんが受けてくれて助かった。本当にありがとうね」
私は山城さんの門下生で良かった。芸大にギリギリ滑り込んだ私にとって、真っ先に手を差し伸べてくれた山城さんには感謝しかない。
今日の夕食は、シーザーサラダとペペロンチーノ。たまにはパスタを作ってみようと思い、早めに買い物へ出かけて準備した。
「すっごく美味しい」
夫は目を見開いて喜んでくれた。私も今回の料理には自信があった。
「今度はカルボナーラ、作ってみようかな」
「彩音の作る味、絶対美味しいと思うな。食べてみたい」
その夜、私たちはベッドで抱きしめあった。これより先は、まだお預けだ。胸いっぱいの愛が熟す日は一体いつなのだろうか。明日から、曲作りだ。
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