倖せな生活(くらし)

坂岡ユウ

第一週「くらしを、つくる。」

一日目「ようこそ、関西へ。」

 2021年7月5日9時30分、新大阪駅。梅雨が冬眠の秒読みをする頃、私達は関西の地を初めて踏んだ。JRに乗り換え、大阪駅へ。ここからは阪急に乗り換え、特急で西宮北口まで向かった。阪急マルーンの車体は美しく、ゴールデンオリーブの座席は想像以上に柔らかかった。

 「西宮北口、想像以上に広いな」

 夫がマスク越しに呟く。名前は、石野拓也。東京でカメラマンをしていた彼と、私はこの春に結婚した。

 「豚まんの匂いがめっちゃ美味しそうでお腹空く……」

 私の名前は久保彩音。東京の芸術大学を卒業し、彼の退職をきっかけとして共に関西へ移住した。まったく新しい暮らしが、ここから始まる。今は豚まんのことで心がいっぱいだが、ついさっきまで、かつてない高揚感が胸を襲っていた。


 駅を出た後、私達はスーパーマーケットで食料を買い込んだ。お茶、米、パン、調味料。必要最低限だが、荷物を抱えた二人にとってはかなりの重量だった。

 「これでも、まだ15分残ってるぞ。潮崎さんが来るまで」

 「結構ゆっくり買い物したつもりなのにね」

 夫はわりとせっかちだ。背中の向こうで、スマフォの画面が次々と入れ替わっている。私は購入したミルクティーをごくごくと飲む。紅茶最高。不安混じりの心が癒された。

 それからの15分は短かった。夫は長く感じただろうが、私にとっては一瞬だった。西宮ガーデンズをはじめ、まったく知らない街をひたすら検索していたからだ。程なくして、時間になると黒スーツ姿の女性が夫を見つけて駆け寄ってきた。女性の目を見ると、夫はそっと私に耳打ちした。

 「この人が潮崎さん」

 「そうなの」

 潮崎さんは、私達の新生活をコーディネートしてくれたらしい。話を聞いていると、どうやら夫の先輩なんだって。

 新居までの道中で潮崎さんは私に夫の話を色々してくれた。

 「ごめんなさいね、こんな格好で。午後から仕事だから」

 「いえいえ、とんでもないです」

 「それにしても、まさか石野くんが久保さんみたいなべっぴんさんと結婚するなんてね。私が卒業する位までは『写真一筋!』って公言してたのに」

 「へえ。知らなかったです」

 初対面ですっかり打ち解けた私達に、夫は苦笑いする。

 「潮崎さん、おしゃべりは良いですけど、迷子にならないようにしてくださいね」

 「あっ、石野くんはまだあのこと引きずってるんだ……」

 思わずぽかんとした顔を浮かべた私に、夫は人差し指で誤魔化す。潮崎さんは夫の慌てっぷりを見ると、すかさず話題を切り替えた。

 「ところで、久保さんはここで何をするつもりなの?」

 「えっと……」

 潮崎さんの質問に、私は思わず声を詰まらせた。数秒後、潮崎さんは穏やかな表情を浮かべ、こう囁いた。

 「困ったら、いつでも連絡してね。私はあなたたちの味方だから」

 しばらく世間話をしながら歩くと、ようやくマンションが見えてきた。地図では徒歩10分の道のりだが、潮崎さんのおかげで随分と話した気がする。

 「さ、着いたよ」

 潮崎さんは鞄から鍵を取り出した。エントランスの入り口で、こなれた手つきで鍵を開ける。入ると左手にエレベーター、私達は7階に上がった。右手、左手、直進。潮崎さんによると、新居は棟のちょうど中央だそう。やっと着いた部屋の中で、潮崎さんは夫に新生活のレクチャーを始めた。

 「ここがあなたたちの家。手続きは、全部こちらで済ませておいたから。家具は明日には届くだろうから、よろしくね」

 「ありがとう」

 「でも、食器とか衣類とかは自分で揃えてね。使い捨ては駄目だよ。処理が面倒だから」

 「わかってるってば」

 ここまで言うと、潮崎さんは先ほどと全く同じ仕草で耳打ちしてきた。

 「それと、久保さん。石野くんのことは任せたよ」

 私は戸惑ったが、ただ頷くしかなかった。潮崎さんは夫のひとつかふたつ上の先輩だが、大人の貫禄を感じる。それどころか、私達の全てを知り尽くしているような気がするのは何故だろう?

 また私がぼんやりしていると、今度は普通の声で潮崎さんが問いかけてきた。

 「あ、真面目な顔した。『どうして貴女は拓也くんのことをこんなに知ってるの?』とか思ったんでしょ」

 「何故わかるんですか」

 「私と石野くんは一種の幼馴染みたいな関係なの……」

 潮崎さんは、手短に夫とのエピソードを話してくれた。最初は大人びたイメージだった彼女が、徐々に少女のような目で語っていた。

 「話しすぎたね。じゃあ、後はお願いね」

 私との会話を切り上げた後、潮崎さんは夫と業務連絡を交わし、部屋を出て行った。夫は少し疲れた目でドアを見つめていた。

 「良い友達なんだけど、なんか危なっかしいよな」

 潮崎さんと夫が長い交友関係を保てている理由がわかった気がした。


 その後、私達は手荷物を解き、何もない部屋で大の字になった。フローリングは、夏の暑さを一瞬で中和してくれた。

 「彩音、新しい家はどう?」

 「めっちゃ広いね。それに、すっごい綺麗」

 「やっと始まるんだな。僕たち」

 「ね。楽しみ」

 関西への移住を決めた時、私は仲間と離れるのが怖かった。転校するわけでも、編入するわけでもない私は、ひとりぼっちになるのが怖かった。今も怖くないと言ったら嘘になる。だが、怖がりすぎる必要はないのだと気付いた。

 夜。スーパーで買った唐揚げを頬張っていると、窓の外には西宮の街が見えた。遥か彼方には、大阪の市街地も輝いているのだろう。

 「ようこそ、関西へ」

 暖かいネオンは、あたかも私達を歓迎してくれているようだった。

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