爛れる愛

夢綺羅めるへん

爛れる愛

 或る高校の昼休み。昼食をとる生徒達の談笑と六月上旬の生ぬるい気温が、なんとも緩い空間を演出していた。

 彼女が、現れるまでは。

「一年B組ですね、失礼します。二年の長戸律です、文化祭の規律確認のため参りました」

 蛍光灯の光でツヤツヤ輝く長い黒髪を揺らしながら律が教壇に立った瞬間、室内がしんとする。その鋭い眼光が向いた先から空調が彼女基準に設定されていくかのように冷たい空気が漂っていく。

「人数分書類を用意したので、各自確認しておいてください」

 そんな雰囲気を気にもとめず、律は凍りついたような無表情で淡々と続ける。

親譲りの秋田美人、成績はいつも学年トップ、おまけに現風紀委員長。何もかもが高水準の彼女は、故に周りから距離を置かれている。校則違反者への厳しい指導と毅然とした態度も、近寄りがたさに拍車をかけていた。

「ではこれで……」

 書類を置いたついでに、制服の乱れた者がいないか確認し終えた律が教壇から降りようとした、その時だった。

「ぎゃああっ!」

 少女の叫び声と何かが散らばる音が廊下に反響した。普通なら何事かと騒ぎになるような悲鳴の大きさだが、この学校の生徒達にとっては慣れた出来事だ。

「……何してるのよ、陽菜」

「あはは、転んじゃった」

ため息混じりの律の声に応じて悲鳴の主が教室に入ってくる。 

 律と同じ顔、身長、髪型。頬に貼られた絆創膏以外の一切が律と瓜二つ。彼女の名前は陽菜、律の双子の妹である。

「全く、本当に私がいないとダメなんだから……もっとちゃんとしなさいよ」

「でも、律ちゃんがいてくれるから大丈夫なんだよ」

しかしこの二人、見た目はそっくりでも中身は全くの別物だ。ハイスペックでクールな律とは対照的に、勉強も運動も平均に及ばず、ドジでよく転ぶのでいつもどこかしらに絆創膏を貼っていて、代わりに誰にでも優しくて人あたりが良いのが陽菜。

 律が冷たい氷なら陽菜は暖かい太陽だ。その証拠に、陽菜の登場以降教室は以前の生ぬるい空気感を取り戻している。

「ええ、お騒がせしました。それでは失礼します」

 無理矢理締める律も心なしか頬が緩んでいる。陽菜の放つ陽気は、律の氷の仮面すらも溶かしてしまうのだ。


 

 放課後。委員会の仕事がある律を一人待っていた陽菜は、玄関で女子生徒と対峙していた。

 律がいない時に声をかけられるのは、陽菜にとって珍しいことではない。男女問わず要件はいつも同じ。断ってもまたアタックしてくる生徒もいるくらいだ。

だから、今回も何を言われるのか察しはついていた。

「ごめんね、好きでいてくれるのは嬉しいけれどその気持ちには応えられないかな。女の子同士だからってわけでは、ないんだけどね」

「ならせめて友達に……」

「ううん、私には律ちゃんがいるから……それにみんな、本当は律ちゃんの方が気になってるの、わかってるもの」

「そうじゃないです! 私は陽菜先輩のことを見てるんです!」

 陽菜は優しくかぶりを振る。そして諭すように口にする。何度も繰り返し言ってきた、あのセリフを。

「私はね、お母さんのお腹の中で律ちゃんにいいところをぜーんぶあげたんだよ。寿命もあげられたら良かったんだけど、それはできなかったみたいで、私は今こうして生きてる」

 陽菜は「だからね?」と微笑んで、続けた。

「私は一生律ちゃんを支えて生きてくんだって、決めたの。だから、ごめんなさい」

 空の高いところで燦々と輝く太陽のように優しい笑み。故に、手は届かない。

「なんで……」

 でも、だからこそ。

 その壊れてしまいそうな儚い笑顔に、手を伸ばさずにはいられないのだ。

「なんで陽菜先輩はもっと自分のことを大切にできないんですかっ⁉︎ 陽菜先輩は……陽菜先輩なのに……!」

 熱くなった女子生徒が陽菜の手を掴む。勢いよく伸ばしたその手は、前腕に貼られた絆創膏に触れてしまう。

 刹那__

「やめてっ!」

 陽菜が血相を変えて手を振り払った。普段は大人しくて優しい陽菜が声を裏返して叫び、明確に拒絶した。

 あまりの出来事に声も出せない女子生徒と肩で息をする陽菜の間に、ひやりと冷たい空気が流れる。太陽と称される陽菜がその場にいるとは思えない、刺すような寒気。

「あ……」

 そして空気が冷えた原因は、それだけではなかった。

「律ちゃん……」



 学校から家に帰るまで、二人は一言も口を聞かなかった。

 律はいつもの無表情。対する陽菜はひたすらに言葉を探したが、結局何も言わなかった。何も言えなかった。

 陽菜でさえも溶かすことのできない圧倒的な冷気が、二人を捕らえて逃さなかった。

 家についてリビングのソファに鞄を置くと、律がようやくその口を開く。

「私は前に、陽菜は私に守られていればいいって言った」

「……うん」

「他人なんていらないって言った」

「うん」

「他人と関わるから、ああいうことになる。前にも同じようなことがあったじゃない」

「うん」

 律が陽菜の方を向く。表情はいつもと変わらないが、目が据わっている。普段の冷たい視線とは違って、燃えるような激情を孕んだその眼は、律が本気で怒っている時のものだ。

律がそっと右手を伸ばした。怯える陽菜の体が大きく跳ねる。だがそんなことはお構いなしに律は手を伸ばし続け、陽菜の制服の胸ぐらを掴んだ。

「前に言ったこと、わかってなかったみたいだから」

 絞り出すように出されたその声は、少し震えていた。

「声、我慢してね」

 言うと同時に、律が力任せに押さえつけるようにして陽菜を押し倒した。陽菜がくぐもったうめき声をあげる。

「陽菜には何も残ってないから、私が守るって言ったのに……!」

 床に倒れたままの陽菜のお腹を蹴りとばす。陽菜のえずく声は、律には届かない。

「私以外と関わりを持つのはやめるって言ったのに! ねえっ!」

 今度は長い髪を掴んで無理矢理顔を上げさせる。陽菜は口から泡を吹いていて、もう目の焦点もまともに合っていない。

「陽菜も私に守られたいって、一緒にいたいって、言ってたじゃない」

 律が手を離すと、陽菜の体は糸が切れたように力なくその場に倒れた。

「ねえ? ……ねえっ!」

 そんな陽菜の体を容赦なく殴りつける。日々の運動で鍛えられたその拳は、律より幾分か女性的な体つきをしている陽菜が受け止めるにはあまりに重かった。

 電気もついていないリビング。カーテンの隙間から僅かに差し込む夕日も届かない部屋の隅で、律の怒号だけがひたすら響き続けていた。



「ん……?」

 陽菜が目を覚ます。いつの間にかソファに寝かされていて、手当が施されていた。

「律ちゃん……」

 気配がしたので部屋の隅に目をやると、膝を抱えて酷く目を腫らした律と目が合う。

「陽菜、大丈夫……?」

 律の声は先ほどよりずっと震えていた。けれど今の震えは、怒りを抑えきれずにいたあの時のものとは違う。

「ごめん、私またやっちゃった……陽菜のこと守るって言ったのに、また傷つけちゃった……」

「いいのよ、律ちゃん」

 陽菜はソファから降りて、体育座りのまま動かない律の隣に腰を下ろした。

「そもそも私、律ちゃんに傷つけられてなんかいないもの」

「え……?」

「私ね、律ちゃんがつけてくれた痕を見ると安心するの。ああ、これは律ちゃんにつけられたんだって……律ちゃんは私のことを想ってこうしてくれてるんだって」

 陽菜はゆっくり右手を上げると、律の頭を優しく撫でた。

「だから、気に病むことなんてないの。今回のことも、元はといえば私のせいで招いたことだもの」

「陽菜ぁ……」

 律の目に、大粒の涙が浮かぶ。

「でも、今回のは……ちょっと強かったかも」

「えっ⁉︎ すぐ病院に行かなきゃ……でも、殴ったなんて言えないし……」

「ううん、そうじゃないの」

 陽菜が微笑んだ。相変わらず電気のついていないリビングでもはっきり見える、眩しい太陽。

「一緒にいて、ずっと私のことを守ってくれる?」

「あ、ああ! ずっと一緒にいる……一生、私が陽菜を守るよ」

「うん、嬉しい……ありがと」

 陽菜は微笑んだまま、そっと律の涙を指で拭った。

 六月とはいえ、夜風はまだ冷たい。にも関わらず、リビングにはじっとりと蒸すような、温くて、生暖かい空気が二人を中心に漂っていた。



 長戸陽菜。完璧超人な双子の姉とは正反対な彼女は、ドジでよく転んでいる。そのキャラと体中に貼られた絆創膏で隠しているつもりかもしれないが、着替えている際にチラリと見えるお腹のあたりの生傷や痣はいつも真新しくて痛々しい。

 ただ転んだのが原因とは到底思えない傷。虐めを受けているなんて噂は聞いたことがないし、あれはおそらく家庭内暴力……DVによるものだろう。

 そして彼女の両親は海外へ赴任しているため、可能性があるのはたった一人。にわかには信じ難いが、超がつく優等生の姉、長戸律だ。陽菜が律にべったりなのも、何かに誘われるたびに律がいるからと断るのも、律にDVを受けているからと考えれば説明がつく。

 実際のところ、私以外にも気がついている生徒はいるだろう。正直言って、陽菜の傷痕はほとんど隠せていないようなものだ。

しかしあの律が相手となると話は変わってくる。誰もが律の恐ろしさを知っているし、先生に言ったとて「そんなはずがない」と相手にされないだろう。

 だから、彼女を救うためには普通のやり方では駄目なのだ。それなら……

「また来てくれたんだ、ありがとう。でもやっぱり気持ちには応えられないや」

「そんな……私、陽菜先輩を守れるように体だって鍛えてるんですよ!」

「私には律ちゃんがいるから……それじゃあ、またね」

 今日も駄目だった。やっぱり簡単に心を開いてはくれないみたいだ。

 それでも、諦めるわけにはいかない。優しくて、可愛くて、大好きな彼女がこれ以上暴力を受けるなんて耐えられない。

 彼女も、誰かに救われることを望んでいるのだ。他の生徒に同じように告白されている彼女の顔を見て確信した。

だって彼女はどんな相手に対しても、想いを告げられた時、手を差し伸べられた時……

あんなにも嬉しそうに、笑うのだから。


(終)

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