PIECES
回転饅頭
並木通りの窓辺
――音もなく、長い長い霧雨が降っている。予報では夕方頃には止む予報だった。しかし一向に止む気配はない。僕のテーブルに置かれたダージリンティーの表面に映る窓辺の様子は、まるで古ぼけたセピア色の写真のようだ。
かつてよく毎日のように通った並木通りのカフェ。あの頃と同じように店内に飾られた古い映画のポスターが僕をあの頃に引き戻す。あの映画は1度も観たことはないけれど、いつかDVDかブルーレイで観ようかなんて言っていたものだ。空に両手を広げながら、降り注ぐ雨に自らを撃たせる姿がとても印象的なあの映画……
「はぁ……」
小さく溜息をついた。それは降る雨に向けての溜息なのか、それとも……違うのか。
「お待たせ」
向かいの席に申し訳なさそうに駆け寄るのは彼女だった。彼女はいつも忘れてしまいそうだからと傘は傘立てには立てない。店先の庇の下でふりふりと振って雨粒を落とす。傘の先からぽたぽた雨粒を落としながら。
「あたしも、同じのを」
愛想のあまりよくないマスターとは対称的な店員の女の子がにこりと笑ってかしこまりましたと告げる。
「予報なんて、あてにならないよね」
「あぁ、まったくだよ」
「少し痩せたんじゃない?」
「そうかなぁ、ちゃんと食べてるけどなぁ」
他愛もない会話。彼女のテーブルに運ばれたティーカップとソーサーがかちゃんと音をたてた。流れているボブ・ディランの伴奏みたいに軽やかな音。ティーポットの中には彼女がこよなく愛するアールグレイの茶葉がくるくると輪を描きながら抽出されているだろう。
彼女はティーポットの蓋を指で押さえながら白磁のティーカップを充たす。決まって、小匙三杯のグラニュー糖を落とし、マドラーで掻き回す。
「紅茶には……」
「えっ?」
「君は紅茶には砂糖を入れるんだね?」
彼女はくすりと笑う。
「え?知らなかったの?」
「ん~、ひょっとしたら、あまりに自然だったから忘れていたのかもね」
「あなたは紅茶に、ハチミツを入れるよね?」
確かにそうだった。ハチミツ入りの紅茶を僕は飲む。声がなんとなく、滑らかになるような気がするからだ。
「歌うたいには、いい薬みたいなもんだからさ」
「それなら、ハーブティーがいいよ。ハチミツ入れた紅茶ってさ、ちょっと色が変わっちゃうじゃない?」
「まぁね」
「紅茶に映る景色って、なんだか切ないよね」
なんの脈絡もなく彼女は言った。僕のほうを見ないまま、彼女はじっとマドラーで混ぜた後の紅茶の廻る波紋を見ながら……
「どういう事かな?」
「なんだか、古い写真みたい」
「……」
「こうして、ここで紅茶を飲んでるとね、ふとこう思うの」
外にひゅうと風が吹き、アスファルトの窪みにできた水溜まりを揺らす。ざっと雨足も一瞬強まり、窓を叩く。
「あなたの事も、思い出になっちゃうのかなって」
「……頼むから」
「ねぇ、訊いてもいい?」
僕のカップには、まだダージリンが残っている。ハチミツも入れていない、茶葉を煮出したダージリン。
「また、ここに来たら会えるよね?」
「……あぁ」
「ほら、冷めちゃうよ。せっかくの美味しいダージリンが」
僕には分かっていた。このティーカップが空になったら君は……
「マスター、お会計、いい?」
「ちょっと……」
「いいの。ここはあたしに払わせて」
僕は立ち上がった彼女の姿を見送る。少ししか残っていないダージリンを飲み干すと、僕はカップをソーサーに戻した。
――かちゃりと音をたてたソーサー。僕は顔を前に向き直る。雨は嘘みたいに止んでいた。窓の外には銀杏並木。まだ乾かない路上の水溜まりは風紋をたてながら揺れている。
マスターはこちらを見ても何も言わない。愛想のいい店員の女の子すらも、こちらに気付かないかのように動いている。
毎回、彼女にこの喫茶店で会う度に僕はダージリンを注文し、彼女はアールグレイを注文する。そしていつものように交わす。
「少し痩せたんじゃない?」
そう、彼女の中ではあの日のままの僕しかいないのだ。何度顔を合わせても、彼女は何時でもあの時のままの僕しか見えていない。僕の目の前の彼女は、その可憐な面影を遺したまま、時の流れに身を預け……
「帰るかな」
もう雨は降っていない。彼女は雨に降られずに濡れないで帰れただろうか?僕は喫茶店のドアに手を伸ばして開いた。
カウベルがからからと音を立てる。外に出た僕に暖かな日射しが躰を包むように降り注いだ。
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