炭酸水、480ml。
識織しの木
1. ガラスの女の子
私は平日の放課後ほぼ毎日、炭酸水を買う。同じ駅の同じ自販機の、同じボタンを押して。
内容量480ml 消費税込み120円
けれども、折角買ったその炭酸水を私は横へと流す。自分では飲まない。
それじゃあ誰が飲むのかと言うと──
「ありがとう」
無邪気に笑う、この女の子だったりするのだ。
「電車、あと何分?」
「十分ちょっと、かな」
「りょうかい」
言って、少女は炭酸水の入ったペットボトルのキャップを外した。グきゃっと軽くて高くて、壊れた音がした。
「炭酸水って、液体の中で一番美味しいと思う」
少女は真面目な顔で言った。校則で制限されている高さぎりぎりの、真っ直ぐ伸びたポニーテイルがよく似合う、とてつもなく可愛い女の子だ。そう、とてつもなく。
私がその立ち姿に見蕩れていると、その娘がこちらを向いて。
「そんなに私のこと好き?」
直球で問うので、私も直球で返す。
「うん。大好き」
「そっか。私も好き」
「知ってる」
「うん」
そう。私の大好きはかのマリアナ海溝よりも深い。ところでマリアナ海溝ってどれくらい深いのかしらん。
「チナちゃん。今なに考えてる?」
「マリアナ海溝」
「ナニソレオイシイ?」
「ワタシモワカラナーイ」
ふふふ、と二人で笑ってみる。
ふざけた会話も、真剣におもしろい。
大人になったら、私どうなるのかなぁ。大人になってもこんなこと言ってたら脳みそポップコーンだと思われちゃうかも。
「アズちゃんの脳みそ、何でできてる?」
「えー、何だろ。愛と希望と夢と正義と勇気と…」
「プリキュアか」
かわいーよねープリキュアー、とアズちゃんは笑っている。プリキュアも確かに可愛いしかっこいいけれど、アズちゃんだって負けてないんだから。私のなかではね。
「でも、本当に愛と希望と夢と正義と勇気でできてたら、そんな人ばっかりだったらちょっと怖いかも」
少し真剣な声で、アズちゃんは呟いた。
「完璧な人って、恐ろしい気がする。すこぅし適当でほんとにちょっぴり意地悪で抜けてるほうがいいのかも」
「アズちゃん、そんなこと考えるんだね」
「ヘン?」
「ううん。全然」
大人は、私たちに悩みなんてないだろうと思っているのかもしれない。だけど、いろんなことに躓くし、ちょっとのことで気落ちするし、どこまでもどこまでも果てしなく考え事をするときだってある。私たちはとってもとってもガラスっぽいのだ。
そしてアズちゃんは、私が知っている誰よりも、ガラスみたいな娘。
きれいで、本当にすごくきれいで。とおっても強くて、だけども意外と脆い。
あるときは太陽にも勝るような明るいアズちゃんだけれども、その数分後にはなぜかとても深いところにぽつんと静かに座っていたりする。
アズちゃんは人間だ。本当に生きている。純粋で、素直で、だから強くて優しくてきれい。だから私はアズちゃんがいい。
「電車、もうちょっとだね」
私が言うと、アズちゃんは静かな目で頷いた。
まだ少し深いところにいるらしい。
電車が見え始めた。アズちゃんはガラスでできた体内に、炭酸水を一口分流し込んだ。
ペットボトルのキャップは、もうグきゃっと言わなかった。
静かに乗って、静に揺られて。電車はどんどん私たちの家の方面に向かっていく。がががんごごごんと刻まれていく振動が心地良いのか悪いのか。微妙だ。
隣に座ったアズちゃんは、段々と私の肩に寄り掛かってくる。もう眠ってしまったのか、それとも目を閉じているだけなのか。
私の肩に預けられたアズちゃんの重み。それはこの小さな女の子の全体重の何パーセントなのだろう。私もつられて目を閉じて、制服姿の細っこいアズちゃんを瞼の裏に思い出した。私は不安になる。この娘、本当にちゃんと食事というものをしているだろうか。おれそうな細腕は、私の視線だけで簡単に崩れ落ちてしまいそうだ。
いよいよ恐ろしくなった私は目を開けて、すぐそばにあったアズちゃんの左手をとった。アズちゃんは儚い。
しゅいんしゅいんと、景色が移り変わってゆく。この景色を眺めて一年以上になる。とっくに花を落とした桜の木々が一瞬現れて、そしてすぐに流れていく。
人類の叡知を結集した乗り物の速度に、私の目はついていけなくなる。疲れたので外を見るのをやめた。
「チナちゃん」
「うん?」
「手、ありがとう」
私がどう返事したらよいものかと迷っていると、アズちゃんは再び目を閉じた。
何が「ありがとう」なのかよくわからなかった。アズちゃんは嘘を吐く娘ではないので、本心からの言葉であることは確かだ。絶対。
私には、アズちゃんのことがよくわからない。アズちゃんは他の誰よりもわからない存在だ。だけど、他の誰といるときより私は楽しいし、安心できる。
電車に乗ってから、自宅の最寄り駅に着くまでの約30分間。
私とアズちゃんはたくさん喋るときもあるし、ちよこっとだけ喋るときもあるし、今日みたいに全然喋らないときもある。私にとってそれは悪いことじゃない。アズちゃんがどう思っているのかを知ることはできないけれど。
景色が急速に寂しくなる。大きくて立派な建物がみるみる少なくなってきて、こうなるとやっぱり寂れているなぁと感じる。
「アズちゃん、もう着くよ」
とても小さな声で、私は呟いた。こういうとき、起こして良いものかどうか、とても迷うのだ。
でも起こさないと降りられないしな。起こすしかないのはわかっているのだけれど。
死んでしまったかのように静かなアズちゃんを見ていると、この世界はもしかして私が知らない間に終わってしまっていたのでは、という錯覚を抱いてしまう。
電車がスピードを落とし始めたので、私はもう一度アズちゃんを起こそうと試みる。握っていたアズちゃんの左手をぱっと離した。
アズちゃん、アズちゃん、と名前を呼ぶ。
「…着いた?」
「うん」
アズちゃんがすっくと立ったとき、電車が止まった。
私も立ち上げって、制服のスカートの裾を整えて、先に降りたアズちゃんの後に続く。
ガラスの女の子は、再び炭酸水を取り込んだ。
「ふふふ」
アズちゃんは笑った。私にとっては脈絡のないその笑いも、アズちゃんにとってはそうではないのかもしれない。
「チナちゃんは、優しい」
微笑みながら、歌うみたいに。
ペットボトルの中身は、もう半分くらいが空気だ。
笑っているのに、楽しそうというよりも…。何だろう。
アズちゃんはとっても楽しそうに笑う。だけど壊れそうに笑うときもある。今のは後者。
無人の改札を抜けて、いつものように歩く。
右隣にはアズちゃんがいて、私の右手をふわっと握っている。
広がっているのは畑と田んぼ。ぽつんぽつんと、離れてたっている平屋の家。
高校周辺とは大違いの、何にもないところ。
少し歩くと、アズちゃんの手がふっと離れていく。ここでお別れだ。
「今夜、電話するね」
「うん。待ってるね」
アズちゃんはたまに、夜電話をくれる。私はそれが嬉しい。とても嬉しい。
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