変わらない世界を記憶に求めて

忍野木しか

変わらない世界を記憶に求めて


 小学校の同窓会を抜け出した岸部久美は、暗い夜空を見上げた。

 街灯の光。高校へと続く道の記憶。かつての通学路で、彼女は瞼の奥に夢を見る。

 冷たい朝の青さ。夕暮れの雲のオレンジ。明るい歩道に響く、誰かの声と自分の声。友達の背中に揺れる艶やかな黒い髪。背の高いクラスメイトの笑顔に飛び跳ねる心の音。

 確かにあったはずの過去が、夢の中の幻想のように鮮やかで儚い。過ぎ去った時間に変わった色。失われた過去を思い出す陰鬱な現実。

 薄い街灯の光を追うように、暗い坂道を歩いた久美の瞳に桜並木が映る。陽に煌めく青葉の記憶。蝉の声が響く校庭の思い出。

 久美は、正門のある通りの暗いベンチに腰掛けた。変わらない景色の、変わってしまった色と音。丘の上の学校から見渡す夜の街が黒い。

 何もかもが綺麗だったな。

 文化祭の帰り道に友達と聞いた曲の歌詞。見たことも無い彗星の光を夜空に探した彼女は、地面を擦る足音に驚いた。

「み、三嶋先生?」

 太い腕にまくられたカッターシャツ。四角い顎に伸びる無精髭。久美の記憶よりもひと回り痩せた担任は、変わっていない景色よりも、かつての鮮やかさを思い出させた。

「ん? 誰だ、お前は」

「えー、ひどい、忘れちゃったんですか?」

「んー? 授業中に化粧を始めるようなバカの顔など、覚えとらんぞ?」

「もう」

 三嶋邦男の豪快な笑い声。記憶と一致する音に、ホッと息を吐く彼女。

「岸部、こんなとこで何をしとるんだ?」

「同窓会があったんですけど、つまらなくて抜けてきちゃいました」

「そうか、大学の方はどうだ?」

「とっくの昔に卒業してますけど」

「何だ、ガハハ、てっきり留年しとると思ったんだが」

「もー」

 暗い夜道に響く二人の声。街灯に光る邦男の黒い髭に混じる白髪。少し寂しさを感じた久美は、それでも、昔と同じ鮮やかな音に和んだ。

「先生、学校って変わってないですか?」

「ああ、何も変わっとらんよ」

「この辺も変わってないですよね?」

「変わっとらんだろ」

「じゃあ、やっぱり、変わったのは私なんですね」

「はあ?」

 久美は肩を丸めた。鮮明に残る記憶の中の楽しかった日常は、永遠に戻ってこない。昔に戻りたいと、何度も呟いてきた言葉を、心の中で呟く彼女。

 邦男はやれやれと鼻を鳴らした。

「何だ、岸部。お前、まだ思春期なのか?」

「はいぃ? 違いますけど?」

 美しい記憶の中の幻想に混じる、昔と変わらない音。ムッとして顔を上げる久美に、肩をすくめる邦男。

「いいか、岸部。学校もお前も、毎日変わってはおるが、何一つ変わってはおらんのだよ」

「……全く意味が分かんないんですけど? 変わってて、変わってないって、凄い矛盾じゃないですか?」

 首を傾げる久美。邦男は顎髭を撫でた。

「お前が覚えとる昔と今はな、別に何も変わっちゃおらんってことだ。もちろん、お前自身もな」

「毎日変わってるって言ったじゃないですか?」

「おお、変わっとるぞ、風が吹けば木の葉は落ちるし、この暑い町も、冬になれば雪化粧だ。お前だって、勉強して、友達と話して、毎日変わっていっただろうが?」

「だから、変わったんじゃないんですか?」

「それが、変わっとらんという事だ。違いはあるかもしれんが、お前はお前で、学校は学校なんだ。何なら、明日、学校の授業に参加してみるか? 確かに昔とは違うかもしれんが、自分も学校も、何ら変わっとらんと気付くはずだ」

「いくら私でも捕まりますよ」

 昔と変わらない邦男の笑い声が夜空に響く。

 何が変わって、何が変わってないのか、分からなくなった久美。

 そう言えば、高校に入学したばかり頃は、この先生が怖かったんだよね。

 大柄な男の豪快な笑い声に震えていた、十五歳の頃の自分を思い出す彼女。

 その笑い声と、今の笑い声は同じなのだろうか?

「先生って変わりましたか?」

「あ? 俺は何も変わっとらんよ」

「ですよね」

 冷たい朝の青さ。夕暮れの雲のオレンジ。世界は、自分は、変わったのか、変わっていないのか。

 あまり変わっていないのかな?

 久美は瞼の奥の自分に問いかけた。





 

 

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