漆ノ妙 葛乃葉

 辺りは立ち込める霧で白くかすみ、上下感覚を奪っている。

 澄み切った夜空の満天の星々も、今となっては白い渦の中に溶け込んで目にすることはできない。


 棗の躰は、ふわふわと空中を漂っている。

 空高くから下界を見下ろすような視点からは、森の樹々の中に小さく神社の拝殿の屋根が見え隠れしている。

 真っ白な世界の中に、唯一神楽殿だけが釣り灯籠の炎の中に浮かび上がっている。


 巫女装束の彼女は、神楽殿で舞を舞っている。


 気付くと、棗は神楽殿の脇にいて、下から仰ぎ見るように彼女の舞に見入っている。


 音のない静まり返った空気を、彼女の持つ神楽鈴が揺らす。


 シャリン。


 千早のそでがひらりとひるがえり、青摺あおずりの鶴が舞う。


 シャリン。


 釣り灯籠の揺らめく炎が彼女の舞を照らし、その影をゆらゆらと舞台に描き出す。


 シャリン。


 ゆるやかに、たおやかに、執り行われるおごそかな舞は、棗の意識を神秘的な世界へと引き込んでいく。


 舞終わると彼女は棗にちらりと目を向け、かすかに微笑んだ。


「どう? 私、気に入った?」

「えっ」


 ――「私、気に入った?」というのは、当然「私の舞が気に入った?」という意味だよね?


 棗が言葉を詰まらせていると、彼女は千早から肩を抜き、ばかまの腰紐をいて、はらりと足元に脱ぎ落とす。


「私のそばにいて、ずっと守ってくれる?」


 白衣をはだけ肩を抜くと、白く透き通ったミルクのような肌とピンクの下着が露わになる。


「お嫁さんになってもいいんだよっ」

「いっ、いやっ、ちょ、ちょっと、まっ、待っ」


 棗はどぎまぎしながら、両手のひらで彼女との間に陰を作り、隠れるようにして視線を外す。


 ――えっ、これ、どういう展開。

 いくらなんでもお互い名前さえも知らないのに、お嫁さんって言われても……。

 まぁ、彼女ははっきり言って可愛いよ!

 どうしてもって言うならば……け、けっこ……んも。

 だっ、大体、オレのこと、知ってんのかよ!!

 付き合ってみたら最悪だとか何とか言われても……。


 現実的にあり得ないと思いつつも、何か訳の分からない期待感が頭の中に渦巻き、棗を混乱の渦の中に陥れていく。


 視線を戻すと、今まで神楽殿の舞台にいたはずの彼女がいない。

 彼女を追って周囲に視線を彷徨さまよわせていると、突然、彼女に強く抱きしめられた。

 小ぶりな胸が、ぎゅっと押し付けられる。


 ――ぐぉお……。


 棗は何が何だか分からず混乱し、なすがままといった状態。

 彼女は上目遣づかいに言葉をつなぐ。


「ねぇ、守ってくれるよね?」


 棗が困惑の色をかくせず、曖昧あいまいな返答しかすることができないでいると、彼女は両手でやさしく棗の頭を引き寄せ、耳元に顔を寄せてささやく。


「それとも、こっちの方が好みかなぁ」


 言うや否や、彼女の躰が変化し始める。

 胸が大きく膨らみ、それと同時に腰がくびれ、身長も伸び、グラマーな大人の女性に変わっていく。

 妖艶な切れ長の瞳に霊気が漂うような風貌は、もはや全くの別人であり人ならざるものといった印象を放つ。


 棗はもはや、彼女とはいえない女の胸に顔をうずめながらも、衝撃で頭の中が真っ白になっていた。

 何とか女を振りほどこうとするが、躰の自由が全くきかない。


 女は、棗からゆっくりと離れ、白衣びゃくええりもとを正して長い髪にさらっと指を通すと、彼女だった時とは全く違う声音こわねで口を開く。


「まわりくどいことはやめじゃ」


 切れ長の瞳をなおも少し細め、棗を見下すような目を向ける。


 棗は、訳のわからない状況に全く頭が追いつかず、呆然と立ちすくむしかなかった。


「お前さんは、彩乃あやのを付け回しておるようじゃの」


 女は頬をゆがませて、何かを見透かしたような冷たい笑みを浮かべる。


「残念じゃが、わらわは彩乃あやのではないぞ」


「我が名は、葛乃くずの


「お前さんの呪力に、ちょびっと興味があってのぉ」


 葛乃くずのと名乗った女は、棗の瞳をのぞき込み、瞳の中に何かを捜すようにしながら、ゆっくりと問いただすように続ける。


「かなり強力な呪力じゃの」


 棗にしてみれば、当然、今の今まで呪力などということを考えたこともなく、突然、呪力があると言われても何のことだか全く分からない。


「そ、そんなことは……?」


 葛乃くずのは続ける。


「この神織神社はのぉ、何重もの結界に守られていて、呪力のある者ですら、やすやすと踏み入れることはできないのじゃよ」

「存在に気付くことすらできないはずじゃわ」


 ゆっくりと周囲を仰ぎ見るようにしながら、ふたたび棗に視線を向ける。


「そもそも、お前さんには彩乃が見えたのじゃろ」


 彼女は、身をかくして姿を消す呪術――「隠形おんぎょう」の中でも人の意識をぐことによって存在を曖昧あいまいにするという高度な技術を用いていた。

 意識をぐことによって、姿をかくすのに都合の良いように、人のものの見方さえ変えてしまう。


 ――彩乃……?


 棗は、これまでの経緯いきさつを大まかに説明する。

 そうしながらも、なぜこんなことになってしまったのかを同時に思いめぐらしていた。


 そもそも棗は、自分以外には認識されていない不思議な少女がクラスにいることに気付き、彼女の秘密を知りたいと思って行動を起こした。

 誰にも認識されない彼女が心配だとの思いも、ほんの少しはあったかもしれない。

 だが、そのほとんどは不思議な現象を解き明かすのが目的だった。

 言ってみれば、小さな子供が夜の学校へ探検に行こうとするときのような遊び心だ。


 棗は、厄介ごとに巻き込まれず、極々、普通に平穏な日々をすごしたいと思っているわけで、平凡な日々の中に、ちょっとしたスパイスが欲しかっただけだ。

 スパイスは、隠し味程度が適量で、量が多いと美味しくない。


 しかし、その不可思議な現象にかかわればかかわるほど、そこから抜け出せなくなるということを、棗は考えてさえいなかった。

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