【浅尾真綾、黒鉄孝之(5)】

「孝之……大好きだよ。これからも、ずっとずっと……ずっと大好きだよ」


 打ちつける冷たい雨の中、気を失ったまま横たわる孝之を強く抱きしめて、真綾はかすかな声で囁く。

 その想いが届いているのか、孝之は穏やかな表情のまま眠りについていた。


「孝之……愛してる……」


 ふたりを遠巻きで見つめる大勢のケツバット村の住人たちが、まさに今から飛びかからんとばかりに、赤黒い目玉をぎらつかせてバットを握り構えてにじり寄る。

 その気配を、殺気を肌に感じているにもかかわらず、真綾もとても穏やかな表情で瞼を閉じていた。

 それは、あきらめからではない。

 すべてを受け入れてのことだった。

 すべてを受け入れたからこそ、恐れる心が消えていたのだ。


「孝之……孝之……孝之……」


 お互いの額を近づけて身体をゆっくりと揺らす真綾は、何度も愛する人の名前を静かに呼ぶ。まるで、眠るわが子をあやす母親のように。


「孝之……ありがとう。わたしのために、ごめんね……」


 ケツバット村に始り、ケツバット村で終わる。

 これも運命だ。

 あの日、事故を起こした孝之に出会えたのも運命なのだ。

 望ましくはないが、こうしてふたりは一緒に終わる。

 これも運命なのだ。

 最後まで紗綾と和解できなかったことがどうしても悔やまれるが、それもまた、運命なのだろう。


「お母さん……紗綾……」


 真綾がすべてを受け入れて死の覚悟を決めたその時、激しく降りしきる雨音を切り裂いて、サイレンがけたたましく村中に鳴り響いた。

 真綾は、サイレンの音に目を開ける。

 今度は何が始まるのかと辺りを見まわせば、不思議なことに、大勢の村人たちはその歩みを一斉に止めていた。

 いや、それだけではない。ある者は、夢遊病者のようにほうけて遠くを見つめたまま固まって動かずに止まり、またある者は、瞬きもせずにブツブツと何やらつぶやいている。そのほかにも、壊れたブリキ人形のようにその場で足踏みをする者など、その様子は実に様々であった。

 何事が起きているのか真綾が理解できずにいると、村人の赤黒い目玉は徐々にもとの色を取り戻していき、1人、また1人と、屋敷から姿を消して去ってゆく。どこかへ吸い寄せられるかのようにして次々と立ち去る村人たちの中には、金子の息子・敦士の姿もあった。


「えっ…………わたしたち……助かっ……た……の……?」


 真綾は、眠る孝之を抱きかかえたまま、村人たちの去りゆくうしろ姿を激しい雨の中で眺めていた。

 それはまるで、悪い夢から目覚めたかのように、理由はわからないが、けたたましいサイレンと共に、村人たちはこうして全員が居なくなった。

 雷鳴とサイレン音が、いつまでも夜の闇の中で呼応するようにして響いて重なる。

 そして、降りそそぐ夏の雨が、真綾の涙と泣き声を洗い流してきよめた。



     *



 昨夜の鬼雨きうが幻のように過ぎ去り、村に平穏な朝が訪れる。

 新しい太陽の光が、山々や森を照らし始めた。

 やわらかな風がそうひとしずく落とし、原生林を吹き抜けるたびに木々に紡がれ、その強さを増していく。

 そこへ、1頭の綺麗な青い蝶が、優雅に深緑の世界を舞い踊りながら現れる。



 何を想い、宙をただようのか。


 ひらひらと、ひらひらと、風に舞う。



 やがて、〝森の女王〟とも呼ばれているブナの木が風に大きくそよぐ。

 生命力を強く感じさせる躍動。

 まるで手を振るかのようにブナ林が揺れて鳴きはじめたかと思えば、その綺麗な青い蝶は、双子のように並び立つブナのあいだをすり抜けて、ゆったりと森の奥へと誰かに導かれるようにして消えていった。

 そしてふたたび、原生林は静寂に包まれる。

 こうしてこれまでも、これからも、山と森は続いてゆくのだろう。

 気が遠くなる歳月を果てしなく、ずっといつまでも──








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