【黒鉄孝之、藤木和馬(3)】

 ギュルルルルル……ガゴォォォォン!

 

 白い軽トラックが勢いよく走り出したと思った矢先、車輪タイヤが地面の窪みに運悪く嵌まったようで、その場から抜け出せなくなってしまった。


「そんな……!」


 焦りの色を浮かべる孝之は、思わずシートベルトを握り締めながら、まわりの様子を急いでうかがう。いつの間にか村人たちは円をえがくように軽トラックを取り囲み、表情がわかる距離にまで迫っていた。


「孝之君、あきらめて車を乗り捨てるしかなさそうです!」


 藤木は急いでシートベルトを外すが、なぜかそのまま脇腹の辺りに右手をやった。


「でも、どうします!? このままじゃ、オレたち捕まっちゃいますよ!?」


 震える手でシートベルトを外し終えた孝之が顔を上げると、あねさん被りをした農作業着姿の老婆と目が合った。老婆は、にやけた表情でこちらを見つめながら、手にしているバットの先端を尖らせた舌先で美味うまそうに舐めまわす。


「状況はまさに八方塞がり。絶体絶命です。敵の数は……ざっと20人。わたしが先に出て何人か惹きつけるので、その隙にキミは逃げてください!」

「ふっ、藤木さんはどうするんですか!?」

「わたしなら大丈夫。足の速さには自信がありますから」


 言い終えるとすぐに藤木は窓の外を確認し、「今です!」と叫んで孝之の太股を平手ではたく。それと同時に運転席のドアを勢いよく開け、村人たちめがけて飛び出した。

 一陣の風となった藤木が、村人と村人の間をするりと器用に走り抜ける。足が速いというのは本当だった。


「ぬあっ!?」

「ジジイが逃げたぞぉぉぉぉ!」

「待ちやがれ、くぉらぁぁぁ!」


 数人がそれを追いかけて輪が乱れたその隙に、孝之も軽トラックから飛び出す。手薄になった箇所をめがけて、全力で走って突き抜けた。


「あっ……こんの野郎めぇ!」

「待てぇ、クソガキぃぃぃぃ!」

「村から逃げられはしねぇぞ、この東京とうきょうもんがぁぁぁッ!」


 ほかの村人たちも我先にと、走る孝之の背中に罵声を浴びせながらバットを片手にどこまでも追いかける。それでも孝之は、ただひたすら前を見て走り続けた。



     *



 孝之は無我夢中で、どこまでもどこまでも走り続ける。

 気がつけばいつしか村とは程遠い、森の奥地にまで迷い込んでしまっていた。

 振り返っても村人たちの姿も怒号もなく、頭上から蝉の鳴き声がやかましく聞こえるばかりで気がふれそうになる。疲れきった孝之は走るのをやめて、その歩調を緩やかに戻していった。


(藤木さんはうまく逃げ延びたかな──)


 そう考えをよぎらせつつ、息を整えながら木陰の幹に背中をあずけて身をひそめていると、近くで何か草木がこすれるような物音がした。孝之は息を殺し、さらに身を隠して物音のするほうへと目を凝らす。



 だ……れ……


 だれ……か…………誰か、助けて!



 やがて、物音と女性の助けを呼ぶ声が徐々に近づいてきて大きくなる。ブナの原生林を切り裂くように走る人影が見えてきたかと思えば、そのまま目の前を通り過ぎて行った。

 木陰から行方を追えば、深緑の世界に青藍色インディゴブルーのショートデニムパンツに包まれたお尻が揺れて踊っている。それは間違いなく、真綾だった。


「真綾!」


 孝之は村人たちのことなどすっかりと忘れ、思わず大声で名前を叫びながら後を追いかける。

 先を走っていた真綾も孝之に気づいて振り返り、息を切らしながら立ち止まる。


「真綾!」


 追いついた孝之は、そのままの勢いで華奢な身体を捕らえて強く抱きしめた。


「た、孝之? そんなに強くしたら、痛いよ」

「真綾……無事だったのか……よかったぁ!」


 身体を少し離し、笑顔を向けて恋人との再会を喜ぶ。間近で見る真綾の顔は無傷のままで、そして美しかった。


「うん。わたしは平気だよ」


 優しく聖母のように微笑んでから、けれども、どこか寂しげな表情に変わり、うつむく。


「でも、まだ近くに村人が……ずっと、ずっと追いかけられて……わたし……とっても怖かった」


 涙をあふれさせる真綾は、孝之の胸に抱きつき、声と肩を震わせて泣きだす。


「……ごめんな。怖い思いをさせて」


 両腕で恋人の背中をそっと包み込み、静かに頬を寄せる。


「もう絶対に1人にしないからな」


 ブナの原生林に木霊する蝉時雨はその強さを増していき、真綾の泣き声をかき消していった。


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