【黒鉄孝之、浅尾真綾(4)】

 チェックイン時に受付で聞いた話だと、この宿には24時間入湯可能な源泉かけ流しの温泉があるそうで、それを口実に孝之はすぐにでも真綾と入りに行くつもりだった。

 だが、その予定は残念ながら急遽変更となる。

 沸き上がるスケベ心を紳士的に押さえつつ、孝之はフロントに鍵を預けて真綾と一緒に棚田へと向かった。


「うわっ……やっぱ外、めっちゃ暑いな」

「うん。でも、なんかそこまで嫌じゃない暑さだよね。緑がいっぱいだからかな?」

「あー……そうだな。木蔭だと昼寝できそうな気がするよ。まあ、するつもりはないけど」


 仲居が話していた旅館裏側の林とは、樹高が15メートルほどのブナが繁茂したブナりんのことだった。

 中へ入ると、暑い陽射しが林冠部に遮られてひんやりと涼しい。

 腐葉土が覆い尽くす地面を踏み込めば、舗装された硬い道とはまるで真逆の沈むような感触が足裏から伝わり、なんだかこの世のものとは思えないような不思議な感じがした。


「えっ、すごくやわらかーい! 地面て、こんなにやわらかくなるんだね。逆に転んじゃいそうで怖いよ」

「だな。それに耳もなんか……」


 数歩も進まないうちに、蝉の声がよりいっそう強くなって鳴り響く。お互いの言葉がかき消されるほどの喧騒に、ふたりは会話をあきらめて笑顔をみせた。

 ふたたび歩き始めてすぐ、今がチャンスと思った孝之は、さりげなく真綾の手をそっと握る。

 真綾も何気なく、孝之の手をゆっくりと握り返す。

 やがてふたりは、恥ずかしそうにして今度は笑顔を向け合った。



 手を繋いだまましばらく歩いてブナ林を抜けると、視界いっぱいに棚田の絶景が広がる。

 傾斜地にどこまでも続く稲穂の風浪。

 季節がら、まだ実りの色づきはしていなかったが、強い夏の陽射しに照らされて、みずみずしい新緑の輝きを青空へと解き放つ。

 そして、畦道の脇にポツンとそびえ立っている火の見櫓も、異質ながらどこか風情があり絵になった。


「うわーっ! なんかさ、〝来たぞ〟って感じがするよね?」


 孝之は初めて見る棚田に感動していたのだが、一方の真綾は何も感じている様子もなく、「うん。そうだね」と、素っ気ない言葉を畦道に向けて返した。


(やっぱり、ふたりの初旅行をケツバット村に決めたことを怒っているのかな……有名な観光地にすべきだったか……)


 そう考える孝之の胸の内は穏やかでなかったが、来たものはしかたがない。

 なんとか真綾の気分を盛り上げようと思い、話題を探して辺りを見渡してみる。すると、棚田へと下りる小道脇で独りしゃがみ込む若い女性に目が止まった。

 その若い女性は、つばの大きな木蘭色ベージュのキャスケットを被り、三つ編みのおさげにした赤茶色の長い髪を胸前むなさきへと垂らしていた。ゆったりとしたシルエットの白いラウンドネックTシャツと踝丈のダメージデニムパンツが、彼女を都会からの訪問者だと見る者に教えてくれている。

 ふたりとさほど変わらない年齢であろう彼女の全身からは、どこか落ち着いた、大人の雰囲気が漂ってもいた。


「あれ? あの人、あんなところで何をしているのかな?」


 孝之は自身の興味もあり注意をうながす。真綾も気がつき、背伸びをして彼女を見た。


本当ホントだ。どうしたんだろうね? 何かあるのかな?」

「すみませーん、何か見えるんですかー?」


 孝之はほかに言葉を続けずに、大声で訊ねた。

 呼びかけられた女性もこちらに気づき、しゃがんだまま一拍ほど孝之たちの様子をうかがってから、ゆっくり立ち上がると、


「ええ、棚田とそこに住んでいる昆虫むしたちが見えますよ」


 はにかみながら、大声でそう答えてくれた。


 彼女の名前は、なかあさ。同じ旅館に泊まる観光客だった。

 同伴者がいるらしいのだが、夕食前に温泉に入って休んでいるそうで、やはり仲居から聞いて、この棚田へとひとり足を伸ばしたらしい。

 間近で見る麻美の顔は目元の化粧が少し濃かったが、目鼻立ちがはっきりとしていて、すっぴんでも美人で通るであろう印象を受けた。時折見せる少女のような笑顔も、大人びた雰囲気とギャップを感じさせてとても魅力的だ。


 そんな麻美に、ケツバット村の感想や他愛もない世間話を孝之は鼻の下を伸ばしながら話し続けた。真綾は嫉妬こそしなかったものの、呆れて小さな溜め息をつき、ゆっくり歩きながら棚田へ視線を戻す。

 山間やまあいからの風が色づくまえの稲穂を揺らし、平穏な旋律を奏でている。真綾も先ほどの孝之と同様に棚田の光景を見て感動はしていたのだが、なんとも表現し難い不安を抱えていたのだ。


(ケツバット村──よりにもよって、ふたりの初めての旅行先がケツバット村だなんて……)


 けれども、来たものはしかたがない。

 真綾があきらめて孝之のほうへ振り返ると、相変わらず麻美と楽しそうに会話を続けている最中だった。


「ねえ、孝之」


 少し凄んで声をかける。

 孝之が敏感にその意味を察知して話を切りあげようとしたその時、不意に誰かが3人に話しかけてきた。

 振り返った先には、農作業着姿の人のよさそうなお爺さんと背の高い青年が畦道に並んで立っていた。

 青年のほうは作業帽を目深に被っているので表情はよく見えないが、作業着から露出している上腕部分は筋肉質でたくましかった。日焼けのためか、肌は浅黒くて野性的な印象も受ける。


「あんれ、まぁー。ひょっとして、おめぇさま方は東京とうきょうもんかぇ?」


 年輪が深く刻まれた小麦色の笑顔で話しかけられ、孝之と真綾は顔を見合わせて一瞬だけ戸惑う。自分たちも麻美も、都内からやって来たわけではない。それを正確に訂正するべきか、迷ったのだ。


「はい、そうです。ケツバット村には観光で来ました。自然が豊かで、とても素敵なところですね」


 けれども麻美は、素直に認めて会話を続ける。むしろ彼女が気にしたのは青年の態度のようで、キャスケットの鍔の位置を少し上げて彼を一瞬だけにらむように見てから、その表情をお爺さんに負けないくらいの笑顔へと変えた。


「ヒャッハッハッハッハ! この村にゃー、山と温泉くれぇしかねぇけんども、東京みてぇな大都会から、よくぞおいでなすったなぁー」


 お爺さんは被っていた作業帽を取ると、今度は3人に(特に麻美に向かって)深々とお辞儀をしてみせる。そのまますぐに振り返り、


「おめぇも皆さんに挨拶くれぇしねぇか!」


 と青年を叱りつけたが、青年は少し間をおいてから、何も喋らないで軽く会釈をしてみせるだけで終わった。


 その後、お爺さんは米蔵と名乗り、この棚田の持ち主で、青年は孫であることがわかった。

 米蔵老人はずっと笑顔を絶やさず、3人に棚田やブナ林、ケツバット村の歴史について詳しく教えてくれた。

 けれども孫のほうは、終始無言を貫きとおして微動だにせず、不気味な存在感を全身からかもし出していた。一度だけ3人の様子をうかがうように顔を動かしはしたものの、誰もそれに気づくことは無かった。

 米蔵老人との会話中、夕飯を食べていけと何度も誘われるたび、「旅館で食べますから」と3人は断り続けた。

 やがて、お互いにそれぞれ目配せをして話を切りあげた3人は、一緒に旅館へ戻ることにする。


 その道すがら、真綾が何気なくうしろを見れば、米蔵老人はずっと手を振ってくれていたようで、真綾もお互いの姿が見えなくなるまで大きく手を振り返しながらブナ林へ入った。


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