ここがケツバット村

黒巻雷鳴

プロローグ

【浅尾真綾】

 都会の炎天下。ボタニカル柄のワンピースを着て籠バッグを手に持つあさあやは、四つ折りにしたハンカチを頬の近くで振って微風そよかぜを送りながら、信号機が早く青に変わらないかと横断歩道で待ち望んでいた。

 真向かいのビルに設置された電光掲示板には、現在の気温と本日の最高気温が表示されている。朝に観た情報番組で、猛暑日の連続日数が更新されそうだと話していたのをふと思い出す。

 やがて信号は変わり、真綾はビルの並びにある大型書店へと足早に入っていく。



 旅行雑誌コーナーで立ち止まると、しばらく迷うように眺めてから、平積みになっている情報誌を1冊手に取る。〝家族で行く! 夏休みレジャー特集号〟と銘打たれたそれは、ひとり暮らしをしている大学生の真綾にしてみれば、別世界の話のようだった。

 今年の夏は、恋人の孝之たかゆきと初めて一緒に旅行をしようという話にはなったのだが、孝之からは特別これといった行き先の提案がなく、せっかくの旅行話は頓挫してしまっていた。


(深く考え過ぎないで、近くの海や温泉でもいいのに……)


 7月の中旬になっても決定の知らせがこないので、こうして自分も探しに来てはみたものの、フリーターである恋人のを考えてみれば、宿泊費用が最大のネックになりそうだ。


(どこか安くて良さそうな観光地ところはないかな……と……)


 旅行雑誌をあてもなくめくり続けていた指先が、何かを見つけて動きを止める。

 そのページに掲載されていたのは、幼い姉妹が両親と一緒になって──といっても、本当の家族ではなくて全員が芸能事務所のタレントだろう──滑稽なポーズと満面の笑顔で関東近郊のキャンプ場を紹介する内容だった。


(……孝之って、どんなお父さんになるんだろう? 厳しいイメージはないから、やっぱり子煩悩になるのかな?)


 もしかして将来、自分たちもこんな明るい家族になれるかも知れない。人知れず笑顔をつくり、そんな一時の夢想をしていると、肩に掛けている籠バッグの中から不意に着信音が鳴り響く。

 真綾はスマートフォンを取り出して画面を開き、素早い指の動きで通話アプリを起動させる。

 そこには孝之からのメッセージで、『いい場所が見つかった! ここしかない!』と書き込まれてあった。


(遅いよ、もう!)


 無意識に口角を上げたまま『どこなの?』と返事を送信する。

 するとすぐに既読の文字が表示される。

 そこには、至極簡潔に『ケツバット村』とだけ書かれていた。



 ケツバット村……



 まばたきもせず画面をしばらく見つめていた真綾は、今度は何も返さずに通話アプリをそっと閉じた。






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