quasar

雀ヶ森 惠

男の物語

 黒い。

 これは空だ。雲もない、月も星もない。真っ暗な、空。

 かさかさと乾いた音を立てて、枯れて折れた植物の茎の繊維が体にまとわりついた。

 それはおれの皮膚にぴったりと貼り付いた。

 どうして? おれは服を着ていなかった。

 この寒空にすっぱだかだ。

 何故膚に貼り付くのだ。

 答えが解った、血だ。

 闇の中、すべてが青く見える。


――夜が青く見えるのは、暗いところでは青を示す光の波長が人間の目によく見えるからだった。


 その血はどす黒く、冷え切った裸身を暖かく流れ伝った。

 おれは血を流している、着衣もなく、これは尋常ではない。

 そして痛みに気が付いた。

 からだのあちこちが痛い、手も足も折れている、恐らくは頭骨も……だがしかしそれを凌駕してしてあまりある火のような痛みの根元を……この血はいったいどこからやってきたのだ? それが痛みの元だ。

 ゆっくりと腹に目をやると、めくれ上がった薄いいろの脂肪の層がトウモロコシのように整然とならんでいた。

 その粒がとてもはっきりと見えた。

 そして破れた乳白色の腹膜とやはり白っぽく表面に血管の走った、動物のそれのような臓物が腹からこぼれ落ち砂にまみれ、ところどころは破れていた。

 なにか鋭利な刃物で切り裂いたかのように、血しぶきがむきだしの乳房に向かって上がっていた。

 下は……あふれ出す血液によって既に黒く染まり、その瞬間にどう飛び散ったのかを今判断することは出来なかった。

 おれはこれから死ぬ。だがその前に解かねばならぬ問いがあった、もう時間がない。

 何故だ? 何故おれはこの雑草の覆い茂る草原にはみ出たはらわたを抱え瀕死で横たわっているのだ? 何故おれは女の体をしているのだ?


 黒い空の下、ススキが生い茂る草原で腹を割かれた全裸の女は次第に動かなくなった。



 目が覚めた。

 ここは暗くて狭い。

 というよりもそこは何一つ見えず、まったく指先を胴体に擦りつけるようにして動かせる以外は身動き一つとれやしなかった。

 そのような空間に折り畳まれるようにして、押し込められている。

 ひどく雰囲気のある曲が背中側から聞こえる。

 そしてゴーッという、ノイズ。

 体の下が暖かい。何かの匂い? ガソリンの灼けつく匂いだ。

 膚が直接不織布のシートのようなものに触れている。

 そのシートは湿っている。

 鉄錆の味がする。

 指先が濡れたシートに触れた。

 次に上の方を触ってみると金属で出来ておりアルミのような感触だ。

 なにか金属製の補強の細い棒が斜めに走っているようだ。

 そこまで考えてみておれは気が付いた。

 ここは車のトランクの内部に違いなかった。そしてこの痛みは何だ? シートを濡らす暖かなものはおれの血液ではないのか? そういえば先ほどから動かす指先に力が入らない、震えている。

 恐る恐るおれは手の届く範囲でシートをまさぐった。

 やわらかく、あたたかく湿ったものがある。

 それは弾力に富み、ゴムのような手触りだ。

……これで解った。

 おれは何者かに腹を切り裂かれ、走行する車のトランクに押し込められている。


 おれを始末する気だ! だが誰が? いったい何の目的で? 畜生! ハメられたんだ!


 その瞬間、運転席のボタンから繋がっているワイヤがトランクの鍵の部分を開いた。

 外からの風が一気に流れ込んできた。

 腹を割かれた肉塊はごろごろと勢いよくトランク部分から転がり落ち、テールランプに赤く照らされた、高速道路の白線の瀝青アスファルトを、跳ねるようにして脇の一段低くなった草むらへ落ちた。



 そこはひどく冷えていた。

 不織布のシートが毛羽立っておりそこにおれは胎児のような格好でぴったりとはまるよう押し込められた。

 何故かひどく目が霞む。

 外は夜だ。

 トランクの外側を向くようにして、横向きに押し込められている。

 街灯に照らし出された男の輪郭だけで、顔は逆行で窺い知ることもできない。

 ともかくその男はおれを車のトランクへ押し込めた。

 そして一旦扉を閉めようとして、再び開きおれの顔を覗き込んだ。

 男の白目だけがやけに目立っている。年も背格好もわからない。

 やたらと生暖かい息がおれの膚を撫でた。

 おれは服を着ていなかった。

 今度は本当にトランクの扉が閉められた。

 すぐに運転席のドアが開く気配がして、エンジンがかかるのが判った。

 車は《アスファルト》 瀝青を滑り出した。

 カーブを過ぎるたびにタイヤが摩擦でぎちぎちと音を立てる。

 なんだかぼんやりしてきたが、理由はわからない。

 何だろう? 頭の芯が痺れてくるような……おれはその理由を懸命に探ろうと脳を動かそうとしたが思うようには働いてくれなかった。

 と、いうよりも記憶自体が錯綜していた。

 なぜなら裸で車のトランクに押し込められる理由はおろか、おれはおれ自身の名前すら思い出せなかったのだ! 運転席から打ち込みの曲が聞こえる、呑気なものだ。

 あの男は犯罪者だ。おれは誘拐されたに違いない。

 だが何故だ。

 だがそんな前のことは到底思い出せそうにない、憶えている限り最後の記憶は車のトランクを閉める男の目の白目がやたらてらてらと闇に光る様だけで、何も思い出せないのだ。

 やがてトランクの床に敷かれているシート状の不織布がじっとりと湿ってきていることにおれは気が付いた。雨か? いやそれならば表面の金属を打ち付ける雨音ですぐに判るはずだ。

 もっと人肌で、おれの腹あたりからじわりと広がっていくもの……血だ! 切られたのだ! 何故今更気が付いたのだろうか? それほどまでにおれは混乱し、気が動転していたのか。指が髪の毛に触れる。長い髪だ。


 まるで女のような。


 女だって? そうだ、この脂肪がちな体はなんだ。

 おれは男だ。

 その筈だ。


 待て、そもそもおれは一体誰だ?


 黒いセダンは長い上り坂のカーブを過ぎ、高速道路の入り口で停車し、運転席の窓を開け男はチケットを受け取った。



 脇に腕を通されてずるずると運ばれている。

 大きな目地のタイル状の床だ。

 継ぎ目の度にふくらはぎが擦れた。

 おれは服を着ていなかった。

 証拠を残さないためだ。

 そうに違いない。

 裸の肩にかかる髪が鬱陶しく揺れた。

 髪だって? なぜそんなに長いのだろう。

 窓から真っ黒な空が見える。

 夜だ。

 室内に灯りはない。

 そんなに広くはない部屋を斜めに横切るようにしておれは運ばれた。

 何故なすがままにされているのか? しかし体は動かない。

 自分の意志では動かせない。

 外に出た。

 風が冷たい。

 そこは廃屋じみた建物でおれが引きずり出されたのはそこの外階段の踊り場のような部分だった。

 びっしりと蛾の死骸がたまった蛍光灯のカバーから、そいつらがぼんやりとした影をコンクリートの床に落としていた。

 不意におれは背負われた。

 ビニル製のレインコートの様な感触の大きな背中だ。

 おれを運ぶのは余程の大男だ。いや違う、おれが小さいのだ。

 何故? この長髪は何だ。大体男の背に触れている脂肪がちで小さく柔らかな体は何だ! これはおれの体ではない。

 男は一歩一歩慎重に階段を降りている。

 クソッ! 逃げるなら今のうちだ。

 階段で暴れればこの男もろとも落ちる。

 何か知らないが裸で運ばれているなどろくなシチュエーションではない。

 この先に待っているのはおれ自身の破滅のみという冷徹な現実以外に、最早選択肢は用意されてはいない。だが意のままにならない。

 そしてなんだ? この男のビニルの背中とおれの体の間を流れる生暖かいものは。

 痛みがある! それもはっきりとした痛みだ。やばい、何故もっとはやく気が付かなかったのだろう! そうこうしているうちに男は階段を下りきって地面に辿り着いた。

 そして今度は肩に担がれた。今はっきりと判ったことだが――いやその可能性はありとあらゆる方法で否定してしまいたいもだったが、おれは女になっていた。

 何故だ? そしてこの焼けつくような痛みも気にかかる。

 柔らかな腿に触れるゴムのような感触は何だ。

 これは腸ではないのか! おれは怖気が立った。殺されようとしている! だがおれの理性は猛烈にこの体が自分のものではないと告げている。

 おれを担いだ男は幾たびか角を曲がると薄暗い駐車場へと足を踏み入れた。そして一台の黒いセダンの前に来るとおれを乱暴に地面へとたたき落とした。

 砂利混じりの駐車場だ。

 体を引き起こすこともできない。

 裸の膚に石が容赦なく痕をつけ、枯れた葉が血塗れの膚にぴったりと貼り付いた。

 やっとのことで頭だけ持ち上げると、長い髪の隙間から男を見た。

 街灯で照らし出された男は透明なレインコートを着ていた。

 そこに夜目にも赤い血がべったりと着いていた。

 おれの血だ。

 畜生、このレインコートを始末して完全犯罪にする気だ! だが迂闊だ。おれを地面に降ろしたときにべったりと血が付着したはずだ。


 ざまあみろ。


 男はトランクを開くとまたおれを担いだ。

 そこにおれは胎児のようにぴったりと横向きに押し込められ、ご丁寧にはみ出た腸を男はそっとトランクの中に積めた。

 そこはひどく冷えていた。

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