最終章 平安京897 始まりの物語

壱話 


 ――春の盛りである。

 

 平安京の高貴なる方々の邸は、桜の香りに溢れ返っていらっしゃる。

 風に散る花は、大路を行く民草にも春の恩恵を惜しみなく与える。


 そうした中を、旅の一行が進み行く。

 主は、御年四十近い常陸介ひたちのすけ殿。

 従五位下の地位を与えられた受領である。


 東の常陸ひたち国でのお勤めを終え、二ヶ月余りの旅を経て、京にお戻りになったのだ。

 付き従うは、奥方、娘の大君おおいきみ、その弟の太郎君。

 それと、家人の男と女が三人ずつに、乳母が一人。


 時には凍て付いた道を歩み、ひなびた寺に一夜の宿を求め、身を寄せ合って寒さを凌いだ。

 

 厳しい長旅で疲労が極まっているが、それでも一行の顔は明るい。

 常陸介ひたちのすけ殿は、受領の任官中に袖の下をおおいに膨らませ、京の小さな邸を手に入れたのである。

 古い邸はすでに手直しをさせ、包丁人まで雇った。

 最愛の奥方に安楽な暮らしをさせられる喜びは、限りなしだ。


 その奥方は、常陸介ひたちのすけ殿より二つ年上てある。

 零落したものの皇家の血筋であり、慎ましく思慮に長けた麗人である。

 

 娘の大君おおいきみの御年は十八。

 その血筋と才を買われ、東宮の女御さまにお仕えすることが決まっている。

 無論、根回しあっての宮仕えである。

 

 常陸ひたち国は、親王さまが国司を務められる国だ。

 常陸介ひたちのすけは国司の補佐役で、常陸ひたちの役人たちに便宜を計り、こっそり頂いた貢物で財を築いた。

 国司には錦の織物を献上し続け、その甲斐あって、大君おおいきみは東宮の女御さまのおつぼねに上がる。

 公卿に見染められ、妾となり、子を成せば、一族の出世に繋がるやも知れぬ。

 常陸介ひたちのすけ殿の期待は大きい。


 そして、太郎君の御年は十六。

 名は、和明と申される。

 昨年に元服され、来年には大学寮にて学ばれる予定だ。

 今は、母君より琵琶の手ほどきを受け、漢詩を読み込む日々である。



 やがて、一行は邸に到着した。

 寝殿と釣殿から成る邸で、持仏堂もある。

 従五位下の受領が住むには、過ぎた造りであろう。


 一行は着替えた後に昆布茶と餅を頂いた。

 そして常陸介ひたちのすけ殿と和明殿は邸の中を見て回る。


 

「父上、立派なお邸ですね」

 和明殿は、父君と釣殿から池を眺めた。

 池には、すいすいと泳ぐ鯉たちが見える。

 

 寝殿から伸びた回廊の先に在る釣殿は、贅沢な遊び場だ。

 池の上に作られ、夏は涼み、釣りを楽しみ、管弦をたしなむ場である。


「元は、大納言のお住まいであった。対の屋は無いが、我らが住むには充分だ」

 常陸介ひたちのすけ殿は、意気揚々である。

「和明、お前も勉学に励め。上手く立ち回れば、四位は望める」

「はい、父上!」


 和明殿は、力を込めて返答する。

 常陸ひたち国では馬遊びに興じる日々だったが、こうして京の邸に上がると出世欲も湧いて来る。


 父の官位の従五位下は、貴族としては最下層だ。

 帝のお住まいに上がることなど、夢物語だ。

 だが、姉の出世次第では、父も帝のお住まいに近付けるやも知れぬ。

 父も出世すれば、自分も良い身分の娘を娶れるだろう。

 晴れた空を見上げ、大きく伸びをする和明殿であった。


 その夜は、常陸介ひたちのすけ殿の家族も家人たちも、ぐっすりと眠った。

 それぞれが見た夢は美しく、希望に満ちていた。





 ――季節は流れ、夏の盛りとなった。

 

 常陸介ひたちのすけ殿の邸は、上を下への大騒ぎとなった。

 今宵、今上帝の皇子にして、東宮さまの弟の八の宮さまが方違かたたがえ(悪い方角を避ける)のために一夜を過ごしたい、との知らせが届いたからだ。

 

 東宮の女御さまにお仕えする常陸ひたちの君(大君おおいきみ)に懸想する若き殿上人でんじょうびとは多い。

 それに興味を持った八の宮さまは、常陸ひたちの君の実家を見たくなり、方違えを理由に訪れることにしたのだ。


「和明、しっかり御挨拶しろ」

「はいっ」


 門の向こうに現れた牛車を前に、常陸介ひたちのすけ親子は緊張を極める。

 二人とも、真新しい狩衣を着て、恭しく行列をお迎えした。


 牛車から出て来たのは、派手やかな御顔立ちの八の宮さま。

 そして、友人の左大臣家の嫡男の近衛府の中将殿である。

 御年は、共に十七だ。


 八の宮さまは菖蒲重ねの御直衣、中将殿は二藍の直衣姿である。

 牛車から降りられた宮さまは、住人たちを一瞥し、蝙蝠かわほり扇を開いて口元を御隠しになる。


「……手狭だが、成り上がりの受領の家にしては、風情があるな」

「はっ、畏れ多いことでございます」


 常陸介ひたちのすけ殿は大汗をかきつつ、深々と礼をする。

 和明殿も、口をへの字に曲げつつも父に倣う。

 相手は。帝の皇子である。

 尊大な素振りも無理からぬことだ。


「今宵はお世話になります。常陸ひたち殿」

 お付きの中将殿は、礼儀正しく挨拶をする。

「八の宮さまは、仰々しいお席はお望みではありません。お気楽に、月などを愛でたいと所望されております」


「はっ、釣殿にお席を御用意しております。ふつつかながら、我が息子の琵琶などをお聞かせしましょう」

 常陸介ひたちのすけ殿は、恭しく頭を下げる。


「では、私は横笛などを奏でましょうか」

 中将殿は愛想良く微笑み、常陸介ひたちのすけ殿は胸を撫で下ろした。


 かくして――高貴な客人たちは、釣殿に設えた御座所に向かった。



 ◇ ◇ ◇


 

 このエピソードは、サポーター様用に先行公開した物を加筆修正しました。

 主人公たちが、現世に最初に転生したエピソードです。

 

 先行公開の全三話に加え、ラスト一話を加筆したものを『最終章』として、ここに記し、『悪霊まみれの彼女』を完結いたします。

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