第4章 友人の上野、『悪霊』に顔面を持ち去られる

第11話

 12日は、父の裕樹の月命日つきめいにちに当たる。

 毎月、神無代家の菩提寺の僧侶が、読経に訪れる。

 腰痛持ちの老いた住職に変わり、今は弟子の若い僧侶が来る。

 


 今日の月命日は、沙々子は仕事で留守だった。

 いつもなら休みを取るのだが、同僚の占い師は産休中。

 他にも体調不良で、ひとりが休みを取った。

 店は六人の占い師で回しており、最低三人の占い師が常駐せねばならない。

 冬休みで和樹が在宅のため、沙々子は出勤して、僧侶の接待とお参りは、和樹に任された。

 

 やり方は心得ているので、素直に引き受けて、母を仕事に送り出す。

 そして何となく友人の上野昌也を呼び、ふたりで受験勉強に励むことにした。


一戸いちのへは、剣道の稽古だってさ。あいつは推薦で『北杜きたのもり』を受けるそうだし」

 上野はモナカアイスをかじりながら、適当に教科書をめくる。

「お前は、志望校を『桜南さくらみなみ』に変えるのか~。みんな離れ離れだな」

「ああ。まあ……何となく。お前は『第一東だいいちひがし』だろ?」

「キツキツだけどな~。お前との腐れ縁も終わりかぁ~」

「家だって近いし。いつでも連絡くれよ」

 

 和樹もモナカアイスをかじりつつ、テレビに目をやった。

 コックがテロリストをバタバタと倒していくシーンが映っている。

 とりたてて勉強に身は入っていない。

 上野も、今日の訪問者に会いたくて来たまでのことだ。



 かくして、午前11時を回った頃に、オートロックのブザーが鳴った。

 和樹はインターホン電話に出て、相手を確認して一階入り口ドアを解錠する。

「一戸の叔父さんだ」

「おおっと。早いな」

 上野はからになったアイスの袋を片付け、ダイニングテーブルの教科書やノートを揃える。

 和樹も仏壇の前に座布団を敷き、父の写真を前面に出す。

 毎夜会っているのに、妙な気分だ。


 

「やあ、こんにちは。今年はお初にお目に掛かります。お邪魔します」

 月参りに訪れた僧侶の宇野うの笙慶しょうけいさんは、コートを脱ぎ、深々と頭を下げた。

「こちらこそ。今年も、よろしくお願いします。宇野さま」

 和樹と上野は玄関で正座し、頭を下げた。

 

「ああ、そんなにかしこまらないで」

 笙慶さんは苦笑した。

「こちらこそ、甥っ子のれんが、いつもお世話になってるようで。ふたりとも、受験勉強で大変だろう。希望校に受かると良いね」

「はい、頑張ります」


 ふたりは頷き、笙慶さんに付いて、仏壇の後方に座る。

 笙慶さんは蝋燭ろうそくに火を点け、お線香に火を移し、読経を始めた。

 この僧侶は、友人の一戸の母親の弟だった。

 一戸の父親の実家がお寺で、その縁で出家して、現在に至っている。

 年齢は30代半ばで、やせ型で、僧侶らしく剃髪ていはつしている。

 話し方も穏和で低姿勢だ。

 和樹や上野に、兄のように接してくれる。


 

 やがて読経が終わり、笙慶さんは仏壇に深々と一礼して振り向いた。

 和樹は切手盆にお布施袋を乗せ、笙慶さんの前に置く。

「本日は、ご立派なお経をありがとうございました。父やご先祖様も喜んでいると思います」

「いやいや。……今日は、お母さんはお仕事だって?」

「はい。お茶の用意をしていますので、少し休んで行ってください」

「遠慮すべきところだが、せっかくのご厚意だから、いただいていくよ」

「はい。ソファーでお待ちください」


 和樹と上野はキッチンに行き、湯を沸かし直す。

 急須に茶葉を入れていると、上野が小声で耳打ちしてきた。

「……なあ、笙慶さんだけどさ。気付いてる、お前」

「何を?」

「……笙慶さん、お前のお母さんを好きなんじゃね?」

「はぁ?」

「オレだって、笙慶さんには月に一回程度しか会ってないけどさ……何か、今日は残念そうだったぞ」

「……そんなことないって」


 和樹は否定したが、何だか心がモゾモゾしてきた。

 兄のように慕う僧侶を、『お前のお母さんを好きなんじゃね?』と思われたなど非常にショックである。

 母は34歳だから、年齢も吊り合ってはいる。

 が、全く自分が気付かなかったことを、上野に指摘されるとは何だか情けない。

 和樹は、思わず上野をにらむ。


「……ちょい、オレ、トイレ借りるわ」

 上野は、慌ててトイレに駆け込んだ。

 和樹はお盆に湯呑みと羊羹ようかんを載せ、リビングの笙慶さんに持って行く。


「これは、結構なお点前てまえを。ありがたくいただきます」

 笙慶さんは軽く手を合わせてから、湯呑みの茶をすすった。

「昌也くんは?」

「ちょっと……おなかが痛いとか」

「そうか。まだまだ寒いから、薄着しないように気を付けないとね。それにしても蓮も君たちも、大きくなるのが早いな」

「……宇野さまは、お寺を継ぐのですか?」

「次の住職は、蓮の伯父上だよ。伯父上は創建でいらっしゃるから、私は伯父上と御仏みほとけと、そして多くの方々にお仕えするのみだ」

「あの、こんなこと言っちゃ、何とかハラスメントかもですが、結婚とかは……」


「ほぇぁ?」

 笙慶さんの顔が、微妙に崩れた。

 心ならずも、和樹は追い打ちをかけてしまう。

「僧侶は、結婚できますよね?」

「いや、はて、はは……そんなことは考えては…いないよ」

「……そうですか?」



「ぐああああああああああああああああっっっ!」

 和樹が身を乗り出した時、上野の悲鳴が響き渡った。

 和樹と笙慶さんは立ち上がる。

「な、何だね!?」

「ふ、風呂場みたいです!」


 和樹は背筋が凍る思いがした。

 風呂場はトイレの向かいだ。

 トイレから出た上野は、脱衣所の洗面台で手を洗おうとしたのだろう……


「昌也くん、どうした!?」

 ふたりが風呂場に駆け込むと、信じられない光景がそこにあった。

 浴槽の半分ほどの高さに水が溜まり、渦巻き、その中に上野が前屈みの姿勢で、顔を浸けていた。

「だだだじゅげでっ」

 上野は顔を上げようともがいているが、頭を上げることが出来ない様子だ。


「これは……昌也くん!」

 笙慶さんは、上野の肩をつかむ。

 起き上がらせようとするが、しかし全く動かせない。

 水の中から、顔面を引っ張られているように見える。

「昌也くん、どうしたんだ、これは!?」


「お湯を出します!」

 和樹は湯沸かし器の温度を上げ、蛇口をひねる。

 そして服を脱ぎ始めた。

「説明は後です! 宇野さま、上野の体を離さないでください!」

 和樹はソックスもブリーフも脱ぎ捨て、浴槽の湯加減を確かめる。

 ぬるいが、大丈夫だろう。


「宇野さま、これは『悪霊』の仕業しわざなんです! 僕が退治しに行きます! 上野を頼みます!」

「退治って……君は!?」

「この湯の中だと『幽体離脱』できるんです!」


 和樹は上野の体を押し退けるように、浴槽に入った。

 この場に父の幽霊は来ていない。

 だが、それを待つ時間はない。

 親友を助けなければならない。


 和樹は、精神を張り詰める。

 体の芯が震え、射られた矢のように、意識を解き放つ。

神名月かみなづきの中将』は、深い『魔窟』に向けて突き進む。 

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