第九話:黄泉竈食
引き金に指をかけた時の強張りが、まだ残っている。
後頭部を撃ち抜かれた敵将が倒れ伏す様が、そして傍らで狙撃した青年の冷ややかな眼差しが、記憶に焼きついている。
あれ以来、暗澹たる気持ちを引きずっている。
数日前、よく分からないままに催された宴、村の祭りでも見たことないような豪勢な食事を振る舞われた際にも気は晴れなかった。
少年は税の放免を条件に村より徴用された次男坊に過ぎず、殺しなど、それこそ思慮の外、虫獣相手がせいぜいであった。
「……なんか、その中でもとびきりとんでもないとこ来ちゃった気がするな」
彼の心理同様、広がる視界もまた暗い。
篝火は焚かれてはいるものの、今日はとりわけ濃い宵闇が辺りを包んでいた。
まるで、何かの予兆の如くに。
気を張っていたゆえか、あるいは生来の臆病ゆえか。
ふとその暗がりに、蠢く気配を鼻先で感じ取った。狐狸かもしれない。否、そう願いはしたが、殺気立つ人間がひしめき合う砦に寄ろうか。
となれば、それは人以外にあり得ない。ならば歩哨の兵か。裏門へと通じるこの一帯は少年の割り当てであった。人目を忍び足音を殺し、松明も持たずに出回る者がいるとすれば、それは……
びくんと小さな心臓が跳ね上がる。硬い空気を飲み込むと、ぎくんと頸椎が軋んだ。
恐る恐る物陰より様子を伺う。
闇の中で動くのは、三人ばかりの男であった。
いすれも、灯をかざさずとも分かる、物々しい甲冑武者たちで、ガチャガチャと音を立てながら、しきりに動き回っている。
「……だめです。正門からは行けません」
「……うむ、やむを得まい。やはりこちら側から出るしか」
「やはり、今宵は諦めた方が」
「ならぬ……っ! あの奸物信守めの野望を摘むためには、いまこの一瞬しかないのだッ」
などと口語し合う。
その内の一声には、覚えがあった。どこか酩酊したようなその音調と顔の造形の断片が、記憶の中の禁軍第六軍の地田綱房と合致したとき、あっと声が漏れそうになった。
その貴人らが穏やかならざる密談とともに、この砦を出ようと画策している。
少年の恐怖と懊悩は瞬間的に頂点に達した。
それを引き止めるべきか。声をかけて、逆上した彼らに斬りかかられても困る。かと言ってこのまま看過したり報告のためにとその場から立ち去れば、後日責任を追及されかねない。
短く深く悩んだ末に足軽が出した決断は『聞こえるか聞こえないかの声量で声をかけてみる』という中庸策であった。警らとして言い訳の立つ程度の、最低限のの責任を果たそうと。
だが、その身を背後から腕で絡め取った。口を塞いだ。
「……っ!?」
咄嗟のことに暴れる少年の、懸命の抵抗をその襲撃者は意にも介さない。ぐぐ、とその顔を、自らの横へと引き寄せ、
「静かにしていろ。今、面白いところだ」
と脅す。
事実その声は浮ついているようでいて、恐る恐る脇目を向けると、そこには自分とさして齢の変わらぬ若武者が薄笑いを浮かべていた。さながら、いたずらをする悪童がごとく。
何者かは、すぐにわかった。
あの冴え冴えとした、自分から鉄砲を奪い饗庭なにがしかという敵将そ射殺した冷たい眼光は、今日に至るまで忘れられたためしがないのだから。
「か、上社の若殿さま……?」
口を外された少年は、息を整えつつその若者を呼んだ。が、またすぐに掌で口枷をさせられる。
「だから、少し声を抑えろ。あんな間抜けな連中相手でも、さすがに勘付かれる」
少年の目に落ち着きが戻ったあたりで、再び解放された。
「い、良いんですか……? その、お味方から盗んだこととかが知れたら」
逃げ出す綱房が本陣に逃げ帰り、洗いざらい告発する。その危うさを、学のない少年でも分かっている。
村でも、柿一つ盗めば庄屋の家の桑の木に一晩中吊るされる。
「助けを寄越す余裕はないくせに、苦情を申し立てには来るか? はっ、それならそれで良いがな」
この大悪党は、それをあえて承知の口ぶりで皮肉を言った。
「なぁ、
と、信守は名を呼んだ。誰のことかと視線を彷徨わせる少年の顔を、悪党は摘んで捉えた。
「お前のことだ。お前、饗庭の時の小僧だろう。
「あの、二ノ助という親より付けられた名があるのですが」
「親より与えられた名などどうでも良かろう。俺を見ろ、信を守るだぞ。一体俺の行動のどこに信義がある? 生まれた時点で、どういう子に育つかなど分かるはずもない。それこそ周りの匙加減だろうに」
ならば二ノ助でも問題はないだろう、と返すのは、そこ自虐の手前憚られた。
「そう心配するな」
不意打ち気味に、犬童の耳元に唇を寄せて信守は囁きかけた。
「冥府の飯を盗み食いした者の末路を知っているか?」
「へ……」
「決して現に戻れない。より深みの無間へと堕ちていく」
熟れた無花果がごとき、甘美を帯びた音。耳朶にかかる吐息。知ってか知らずか、指先が首筋に這わされる。
決して自分に向けられた言葉ではない。そうと察しつつも魔の言霊が、心臓を鷲掴みにするかのよう。下腹のあたりが、奥底より所在なさげに疼く。
「綱房は、奴にとっての地獄にて非を犯し手をつけてはならぬ飯を食ろうた。もはや日常には戻れまい。官軍本陣へ辿り着けないのは知れ切ったこと。万一包囲を抜けたとて、何の面目あって単身持ち場を離れ逃げ帰り、佐古直成に釈明するのか? なれば、どう出るか?」
信守の身柄が、手早く犬童から外れた。さっと血が冷めていく感覚と、情事の後とはかくなるものかという気怠さと共に、頭がくらくらとする。
搦手から外へと逃げ去っていく連中を見届けた後、流れに圧倒されてその場にへたり込む少年に、最後に意地悪げな笑みを称えた。
「奴は官軍ではなく、順門府へと奔る……さらなる苦界へ、沈んでいく」
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