第七話:無用者の役割

「順門府軍、前後双方が撤退!」

 その報に触れて、信守の眉が軽く動いた。

「訂正しろ」

「は?」

「撤退ではない、後退だ。一時的に包囲が緩んだだけのな。追ったり網を突き破らんとすれば、定石通りに置かれた伏兵で足止めされ、取って返した側に退路を奪られて覆滅されるだろうさ」


 まったくこの方は……と我聞は近侍しつつそれを聞いて呆れた。

 如何な狂を発しようとも、口端に余裕の嘲笑を浮かべていようとも、その根底に些かも奢りがない。


 故に、信じるよりほかない。

 過程はどうあれこの暴挙が、禁軍第五六軍に、上社家に、そして天下にとっての益とすべく動かされているこごを。上社信守の、最後の理性と情愛の一線を。


 要望に従い、我聞は率直に疑問をぶつけた。


「しかし、何故に敵はこの程度の攻めで済ませたのでしょうか。我らを砦の外に誘き出すための罠にしては、あまりに明け透けでは」

 家令の問いかけに、信守は

「さてな」

 と、

「誰ぞの影にでも怖気付いたのではないか?」

 惚けたように柳眉を持ち上げた。

 だがその実、その答えが己の内にあるかのような、含みを持った返しであった。

 

「……では話は変わり、これは進言でございますが」

「なんだ?」

「どうか、綱房卿に役義をお与えくださいませ」


 我聞は視線を砦の片隅に投げかけた。

 そこには相も変わらずぶつぶつと恨み節を唱えながら歯噛みしている第六軍が大将の姿があった。


「今まで挫折というものを知らずに育った若者が、さしたる武功を挙げることも叶わず、戦場で無用者の印を押され、ろくに務めも与えられず放り出される。これは、辛うございます」

「若者、な。奴は俺より歳上だったと記憶しているが?」

「であれば尚更でしょう! 長幼の序というものがござりましょう! 仮にこの場を切り抜けたとしても、禍根を残さば後々の公務に障りが生じることと相成りましょう」


 口を酸くして諫めを重ねていく我聞の脇を、信守は素通りした。

 だが、完全に無視したわけではなく、

「わかったわかった」

 などとぞんざいに手を振りつつ、

「言われずとも、ある局面を奴に任せるつもりではある……とても、とても大事な役割をな。でなければとうに放り出している」

「……それは、何よりでございます」

「要は、公務の障りとなるような禍根が残らねば良いのだろう」


 試すような物言いは、完全に安堵させない何かを孕んでいる。

 それ以上は何も言えずに立ち尽くす我聞の前で、信守は告げた。

「今宵は宴だ。いい加減、腹も減った」


 ~~~


「さぁ、兵糧の心配など最早無用。ぞんぶんに饗そうぞ」

 という信守の扇動じみた音頭とともに、その日の夜、宴が催された。

 緒戦の祝勝、というにはやや規模が盛大に過ぎることもあり、最初のうちはその油断を危ぶむ声や、あるいは我聞の考えたような懸念を表立って言葉にせずとも示す者もいた。


 だが、実際に苦痛を忍び我慢をしてきた彼らは、惜しげなく振る舞われた飯や味噌や干物、あるいは酒などを前に、そんななど、たちまちに飛散させた。


 ……が、それでも中には手をつけず渋面を作る者も居るには居た。

 信守は周囲の様子をつぶさに確かめて回りつつ、自身は水盃を持って、背を丸めて土塀の角に座り込んだ、その『若者』の前に立った。


「よう」

 往時の己であればそのような挨拶はしなかったであろう。そう思いつつ、信守は最も嫌悪する地田綱房へと声をかけた。


「なんだ、まったく手をつけておらんではないか。貴重な兵糧なのだがな」

 そう言いつつ、若者の前に、犬の餌の如く供された椀を手に取り、そして鼻先に突きつけた。


「このたびの戦、地田殿には。そしてこれよりもその働いていただく所存だ。是非とも英気を養って」

「寄るな、穢らわしい!」


 金切声を張り上げて、綱房は信守の手を払い除けた。

 手にしていた飯はあらぬ方向へと飛ばされ、無惨に土の上に散らされた。

 仮にも指揮官同士の諍いである。

 周囲の人々はその空気の尋常ならざるを悟って、酔いの醒めた顔つきと静けさとで、事の成り行きを見守っていた。


「……ま、別に食う食わぬを強いる気はないが」

 腰を伸ばしながら姿勢を整えた信守は、踵を返した。だが『好意を無碍にされた』ことは気にも留めず、挑発的な笑みの横顔をあらためて同輩に向けて、

「だが良いのか?」

 と尋ねた。


「これより先の補給は、貴様が忌み嫌う賊が、佐古から奪った食糧に依る。それにも頼らず、雲や霞でも食って生きていくか?」

「……ふざけるな……ッ、そんなもの、食するものか」

「ご立派ご立派。では是非にも武士の亀鑑として清貧を貫いていただきたい」


 微塵も心にない賛辞を言いつつ、綱房から離れていく。

 だがその去り際、その清貧の無用者の、未練と後悔の眼差しが、食事の残骸へと注がれたことを、信守は見逃さなかった。

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