第2話 旧友たちとの宴


 短い休みが終わり、今日からは招致したスケーターが集まってリハーサルが始まる会場はサンクトペテルブルク市内のアイスアリーナだ。ここでかつて、世界選手権も開催したことがある。


 集まった顔ぶれはみな懐かしい。氷の上に一同が揃った。ソルトレイクシティ五輪銅メダリスト、アメリカのアレクサンドラ・ヒューストン。08年世界選手権王者、カナダのアレン・シェアバーグ。トリノ五輪銀メダリスト、スイスのブライアン・メイスン。デンマークのヨーロッパチャンピオン、サラ・ウィルソン。トリノ五輪アイスダンス金メダリスト、アデリーナ・バリシコワ&イリヤ・バラノフカップル。トリノ五輪スウェーデン代表、ヨーロッパ選手権銀メダリストのビョルン・アルカッセン。


 そして……。


「やーあユーラチカ。元気だったかい?」


 妻のマリアのほかにもう一人、私のことをユーラチカと呼ぶ人物。

 ……昔の彼しか知らない人間が、今の彼を見ると驚くに違いない。昔、10代の頃の彼は、日本人らしい生真面目さを持ち合わせていて、かつ結果を出さなければならないという意識にとらわれすぎて少し余裕がなかった。彼が10代だった90年代後半は、日本には彼以外に世界レベルの選手がいなかったのだから、当たり前の焦りだったのだろう。


 東洋人の顔立ちに対する美醜の身分けに自信はない。だが、彼はアジアンのなかでも二枚目のうちに入るのではないかと思う。

 その時代に、ただ一人で日の丸を背負た男。


「久しぶり、マサチカ」


 一つ年上の日本人、マサチカ・ツツミ。知り合ってから15年以上経っているが、未だに彼を見ると、一番最初に出会った時に言われた言葉を思い出す。


「みんなのお土産に、ユーラチカの大好物の揚げ煎持ってきたけど食べる?」

 今は食べないよ、と笑いながら私は答えた。

「なんだ。ビールとすげえ合うのに」


 イリヤが氷の上でビール飲みながら揚げ煎食べるやつなんかいないだろ、と突っ込むと、いや、俺は是非そう言うプログラムもつくってみたいねとマサチカは返した。温かい笑いが沸き起こる。流石にそんなプログラムは……と思うが、マサチカならやりそうな気もしている。


 集まった顔ぶれの中で、彼は唯一、トリノ五輪のパラヴェーラで演技を行なっていない。二枠あった日本の出場枠だが、当時若手だった紀ノ川彗と遠山銀太が出場し、彼はその前の全日本選手権を最後にアマチュアを引退した。


 トリノ五輪10周年なので、ニキータはトリノ五輪に出場した選手に限定して招致しようと考えていたらしい。そういう意味では、彼はメンバーに当てはまらない。

 ニキータが持ってきたリストを見てマサチカの名前がないと気がついた時、感じたのは物足りなさだった。彼は私と同じ時代を戦ったのだ。トリノに出ていないのは関係がない。すぐに私は、マサチカ・ツツミを呼びたいとニキータに提案した。


「……ロシアの皇帝に挑むニッポンのサムライ、と煽ったのは、あなたでしょう」

「ええ、もちろん覚えていますよ。……トリノには出ていないですが、往年の名選手です。いいですね、華があって。氷上のファンタジスタをぜひ呼びましょう」


 氷上のファンタジスタ。マサチカは時折そう呼ばれる。ニキータは辛口かつ的確な評価を下す。その中で、彼はとてもいいことを言った。華があると。


「じゃあ始めよう。まずはオープニングのグループナンバーから」


 振付師のミハイル・コバレフがやってくる。彼の指示から、各々のスケーターが位置についた。


✳︎ 


 リハーサルは順調に進み、無事に初日を迎えられた。ありがたいことに、全日二公演とも満員で、華々しくショーを始められた。皆百戦錬磨のスケーターなので、グループナンバーを滑るのも最終的な打ち合わせもとんとん拍子で進んでくれた。

 アレクサンドラはアヴリル・ラヴィーンの「ガールフレンド」を滑り、ハイティーンの女の子のような軽快さで沸かせた。ビョルンは日本の歌手、ヒロミ・ゴウの「二億四千万の瞳」を愉快に滑った。これは、滑るたびに笑いがあがる、ビョルンの代表作になっている。ピアソラの「ブエノスアイレスの春」を誰よりもセクシーに滑るのは、ブライアンだ。アデリーナとイリヤは、代表作の「ノートルダム・ド・パリ」をドラマチックに滑った。

 マサチカは……


「……これがジャパニーズビューティーというのかしら」


 傍からマサチカの演技を見ていたアレクサンドラが、エクセレントと呟いた。スケートの衣装としては実に重そうなキモノで、見事に滑りこなしている。白粉で舞台メイクをし、赤いアイラインと紅をひいた彼は、どこをどう見ても女性にしか見えなかった。つばの長い帽子のようなものに……藤の枝を手にしている。


 日本の伝統芸能、カブキは海外でも有名で人気だ。

 演目は、「藤娘」。


 ……このプログラムのために、歌舞伎役者に実際に教えを請うたらしい。完成まで何ヶ月もかかったプログラムだと話してくれた。初披露はだいぶ前だが、彼を「氷上のファンタジスタ」足らしめた名作で、未だに度々滑っているようだ。


 人を惑わす藤の精が、魅惑的に滑りこなす。……サンクトのお客様にも好評のようだ。まずその衣装と道具に目を奪われ、次に所作の美しさ、そして滑りの玄人さに心を奪われる。傾城の美女。その姿で軽々と飛ぶトリプルルッツは、重力さえも感じられなかった。


 なお最近では、彼の弟子がカヴァーしてエキシビションで滑った。彼の場合は歌舞伎メイクをせず衣装も真っ白な袴姿だったが、これはこれで清楚な魅力があった。


「どうしてもみたいって言ってたマサチカのプログラムってこれ?」

 アレクサンドラが突っ込んで聞いてくる。

「いや違う」


 そう、似ているけれど違うのだ。

 このショーでは一つの公演でスケーター一人につき、二つのナンバーを滑る。3日間、1日に午後、夜公演の2回で、全6公演。

途中招致したスケーターとの対談も挟む。昔競技会であったあれこれ。最近の競技会についてのあれこれ。最近の近況。はなせば話すほど尽きることはなかった。ブライアンは最近スペイン出身のジュニアの女の子を弟子に持った。荒削りだが、華のある選手で育てるのが楽しくて仕方がないようだ。アレクサンドラは今の女子シングルがなかなかエキサイティングで面白いと語っていた。エレーナ・マカロワも中々いいが、個人的には今年シニアに参戦する日本のミヤビ・ホシザキに注目していると。ビョルンは教え子のレベッカ・ジョンソンとのエピソードを聞かせてくれた。ヒロミ・ゴウは彼女の発案だったと初めて聞いた。


 マサチカとのトークは二日目の夜公演の予定だ。


「ロシア語で行く?」

 トークの前、最終確認でマサチカに聞いてみる。一応はロシア語が話せる彼だ。サプライズでロシア語で進行しようかと提案したところ。

「いや、俺のロシア語は日常会話だし、細かいところは通訳さんに任せるよ」

 にっこりと笑って辞退した。


 今回のトークで、通訳さんは英語の方しか呼べなかった。しかし、マサチカの英語は公式記者会見で通訳なしで挑めるほど流暢なので、日本語から英語に、英語からロシア語にという途方のない通訳リレーをせずに済む。通訳も人の読み取り方によって訳が変わってしまうので、言った言葉と全く違う言葉が伝わってしまっていた、なんてことは絶対に避けなくてはならない。


「しかし、こうやってユーラチカとショーで話す時が来るなんて思ってもいなかったなぁ」

「私もだよ。君は今忙しいし、きてくれるかはちょっと賭けだったんだ」


 それは言った通りで、事実彼は、このメンバーの中で誰よりも早く指導者になった。プロスケーターとして活動しながら、既に世界レベルの愛弟子まで育てている。


「やあ、充実してるよ。お陰様でね。でも、それは君もだろう」

「それも、おかげさまでね」


 トリノ五輪から10年。スケートを始めて25年。……周りにこんなに人がいるなんて、思ってもいなかった。

 本当に……本当に感謝している。 


 ✳︎  


「そもそもなんでユーラチカって呼ぶようになったんだっけ?」

「アレだよ、アレ。そう、アレアレアレ……って、アレ? なんだっけ?」

「アレじゃわかんないよ」


 会場からがどっと笑いが湧き上がる。スポットライトが当たって話すことになっても、マサチカはマサチカだった。


「ごめんごめん。若年性のボケが凄くってさ。そう、ああアレだ。ソルトレイクのあとの長野の世界選手権で、ユーラチカがメシに誘ってくれたじゃん!」

「違うよマサチカが誘ってくれたんだよ。大体、長野って君の地元だろ」


 そーだったそーだったと、英語をすっ飛ばしてロシア語で答えてくる。

 ソルトレイク五輪後の世界選手権は、日本の長野県だった。バンケットも全て終わった後長野の善光寺を案内してもらい、地元のうどん屋で長話をした。女将さんらしい中年の女性は、うどんを食べ終わっても立ち上がらない私たちを邪険にすることもなく、サービスでほうじ茶と揚げ煎餅を出してくれた。

 ……それが、彼とまともに話した始めだったかもしれない。


「あの時は始めて世界選手権でメダルが獲れたから、すこし浮かれていたのかもしれないね」

 なんたって表彰台で世界のユーリ・ヴォドレゾフの隣に立ったのだから、と彼は言った。


 そこから先は昔話と彼の近況だった。あのうどん屋まだやってる? こないだアイスショーで近く通ったけど、まだやってるよ。ユーラチカはアリョーシャ君と仲良くやってる?鼻つままれてない? こないだつままれたよ! テツヤはこないだの世界選手権でなかなか良かったね。リバーダンスは君の発案? いや、あの子が自分でやりたいって言って。やらせたら、意外によかった。だから今回はもっと難しいプログラムを作ったんだよ。本当に? 本当本当、作るの楽しかったよ。プログラム製作は好きだからね。それなら今度、私のプログラムも振り付けてくれないか? アイスショー用のやつ。


「……えー? 本気で言ってる?それ」

「本気です。だってホラ、お客さんだって聞いているし」


 私は観客に同意を求める。途端に、四方八方から拍手が飛び起こった。満場一致だ。……こうやってマサチカをいじるのは初めてだから、ちょっと新鮮だった。


 マサチカはセルフプロデュースはしばしば行うが、他のスケーターに振り付けることはあまりない。弟子や妹弟子をはじめとして、せいぜい所属しているクラブの生徒ぐらいだといっていた。彼自身、自分や周り以外に振り付ける気はあまりないようだった。

 そんなことでマサチカの作品は少ないが、スケート関係者からの作品の評価はどれも高い。テツヤ・アイカワの「千と千尋の神隠し」は名作だというコーチは多いし、ミヤビ・ホシザキの「韃靼人の踊り」は長野五輪の頃のマサチカを彷彿とさせた。


 フィギュアスケートのコレオゴラファーはたくさんいるが、マサチカ・ツツミに振り付けてもらいたいと願うスケーターは結構いるのだ。

 わかったわかった、というようにマサチカが両手をあげた。


「じゃあ、来年。ロシアの皇帝陛下にお作り致しますよ」

「約束です。……みんなが言質とりましたから」


 再び、一斉の拍手。これにはマサチカもお手上げのようだった。怖いなぁ、とマサチカが笑う。彼は、わざとらしく、恭しく一例する。


「お手柔らかに、皇帝陛下。……なんか最近、こういう依頼増えてきているんだよねー」

「何、マサチカは嬉しくないの?」

「嬉しくないわけじゃないけど、俺の本職は振り付け師じゃないからね。いつだっていい作品を作れるわけじゃないさ」

「みんな滑りたいんだよ、マサチカの作品。私もそのひとりだよ」


 私がそのように伝えると、彼は少し、照れ臭そうに笑った。 


「振り付けといえばさあ、ユーラチカ。俺も聞きたいことがあるんだけど。……今回、なんで「百花譜」をリクエストしたんだい?」


 招致したスケーターには、一作は私がプログラムをリクエストしている。だから、アレクサンドラにもビョルンにも「これを滑ってほしい」というものをあらかじめ伝えてあった。もちろん、マサチカにも。


 好きだから、と明確に私は答えた。


「それは電話口で言った通り。この曲で滑る君が好きだから」

「嬉しいこと言ってくれるね。俺の現役時代の代表作をそこまで愛してくれてるなんて。そんなに言ってくれるなら……結婚しない?」

「しないしない! 私にはマーシャがいるから、重婚になる!」

「なんだ、残念」


 真面目な顔で、とんでもないことを言ってきた。慌てる私に、観客席から温かい笑いが湧き上がる。それで彼との対談は終了になった。


 ……マサチカにオファーを出した時、彼は二つ返事で承諾してくれた。ありがとう。ぜひ出たいね。なんでもいいなら、なんでも滑るよ? リクエストがある? なんだい? 気になるなぁ。


 その言葉に私は即答する。もう一度だけでも見たいプログラム。その名前を告げると……。電話口で、彼の言葉が止まる。姿が見えなくても、眉を顰める姿がありありとうかんだ。


「君が言うならもちろんOKだけど、あんまりお客さんに受けないかもよ?」

 もちろんだと伝える。

「この曲で滑る君が、私は見たいんだよ」


 私が一番見たいものを滑ってほしい。


 華がある。まさにニキータが言った通りだ。

 マサチカこそ、滑り一つで百の花を散らす男だ。


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