冬の魔王と百の花

神山雪

第1話 宝石の街

 初めてサンクトの街を見た時、こんな幻のような、美しい街があるのかと驚き、眼に映る全てのものに心を奪われたものだ。全てがつくりもののようで、幻想的に浮き立っている。うつくしいものが好きな人間が、執念をあげて作り上げたように見えた。


 初めてサンクトに住む人を見た時、こんな美しい街にいるのに、どうしてみんな余裕のない顔をしているのだろう、と首をかしげたものだ。私の住んでいた街のように、廃れた風もなく、周り一面が分厚い雪に覆われることもないのに。


 ……何も知らなくて当然だった。当時の私はほんの子供で、自分の国がどうなっているかなど全くわからなかった。考えたことすらなかった。

 頭にあったのは、この美しい街でずっとスケートが続けられる。ただそれだけだった。


  

    *



 随分と古い夢を見ている。数日後に懐かしい顔ぶれ達と再会するからだろうか。夢の中の私は、これが夢だと分かりきっている。はじめて見る幻想の街。故郷とは違う巨大なスケートリンク。厳しくもあたたかなワジム先生。ライバル心と嫉妬が入り混じったリンク生。靴を隠されたことも更衣室で陰湿ないじめにあったことも数知れない。泣きながらアパートに帰ると、右隣の部屋からはウォッカの瓶が倒れて割れる音、左隣の部屋からは男を連れ込んだ女の嬌声が聞こえてきた。

 ひたすら寂しくて、でも練習の為にリンクに行って、大人から褒められてはリンクメイトからはいじめられて。たった一人のアパートで体を丸めて。


 ーー俺よりも一つ下? でもたいして変わらんもんね。なら一緒に頑張ろう。


 確かその先で、その言葉にであったのだ。


 ……誰かが鼻をつまんでいて、脳内の映像が止まる。脳への酸素供給が激減するからだろう。息のし辛さから、沼底に沈んだ意識が急激に浮かび上がっていく。


「パーパー」


 薄く瞳を開くと、昔の自分と似たいとけない子供の顔がある。オリーブ色の瞳は私とは色違いだ。私は灰色。妻の目の色は、目の前の子供と同じだった。


「……アリョーシャか」


 寝起きなのに、思わず声が弾む。四歳になる息子のアレクセイだ。


「ママにねぼすけのパパを起こしてきなさいって言われたの。こうすれば絶対に起きるからって。もう11時になるよ」

「……そんなに寝ていたのか」

「早くご飯食べて。そしたら、僕と遊んで。今日は一日お休みなんでしょ?」


 ずっと眠っているなんてつまんないと唇を尖らせる。……今日、完全に休みにしたからこそ、昨日少し無茶な時間をすごしたのだ。だが、遊びたい盛りの息子には関係ない。これでは残業続きで疲れ果てたニッポンのサラリーマンのようだ。


「ごめんごめん」


 カーテンを開けて、広がる景色はネヴァ川とエルミタール美術館。ハイジュエリーのような冷たい美貌の街。私が生まれた時はレニングラードという名前だった。レーニンの街という意味だ。今の名前は、サンクトペテルブルク。何万もの死体が積み上げられて出来た、聖ペテロの街だ。

 かつてロシア帝国の皇帝・ピョートル1世がロシアの発展を願って、何もない場所から一から街を作り上げたのだ。ヨーロッパの国々に負けない街、ヨーロッパへの窓、と。


 最初は美しさに目を見張り、確かに心をうばわれたものだ。しかしそれも、住むうちに美しさを疎ましく思うようになり、次第に嫌悪するようになった。今では凪いだ気持ちがあるだけだ。その常ならぬ美しさも、私の一部であり、住む風景の一部になっている。当たり前にあるもの。


そんな世界遺産の街を横目にリビングに行くと、妻のマリアが呆れた顔で待ち構えていた。ユーラチカ、いつまで寝てるつもりだったの。そう言いつつ、パンを焼きカフェオレを淹れ、昨日の残りのシチーを温めてくれるのだから頭が上がらない。


「はやく食べちゃって。かたづけちゃいたいから」


 テーブルにつき、もそもそとパンを食べながらテレビをつけると、イリヤ・バラノフが危険なアクティビティに挑戦している。アイスダンサーの彼は、トリノ五輪で金メダルを獲った後アマチュアを引退し、ショースケートの傍タレント活動にも精を出している。この国のフィギュアスケーターは、バラエティ番組から歌手にドラマまで、なんでもこなすスケーターが多い。


 ーーテレビCMが流れる。氷の結晶が飛び散り、その合間でジャンプを飛ぶ私の姿が映し出される。私の後には先程テレビで崖を綱渡りしたイリヤ・バラノフが華麗なステップを踏み、スイスのブライアン・メイスンが高速のスピンを回る。次々とスケーターが現れ、最後には私が両手を広げて一礼する。パパだパパだとアレクセイがはしゃぐ。ーー数日後に興行するアイスショーの宣伝CMだった。


「今日は休みでいいの?」妻が自分の分のカフェオレを飲みつつ尋ねてくる。

「後はみんなが集まってからじゃないと準備できないからね」

「そう、ならよかった。……今日は久しぶりにゆっくりできるのね」


 しばらくショーの準備でばたばたしていた。いつまで寝ているの、と言う妻も、私が遅くまでプロデューサーとうちあわせをしていたのを知っている。 

 チケットはほぼ売れたとプロデューサーが言ってくれたのは2週間前。家族用のチケットは関係者席に準備してある。


「かっこいいパパが見られるの?」

「そうよー、こんなねぼすけで頭がぐちゃぐちゃのパパじゃなくて、氷の上でかっこよく綺麗に滑るパパが見られるのよ」


 なんて言い草だと抗議をしたいが、その通りなので笑って誤魔化した。昨日の残り物のシチーの征服に取り掛かっていたら、アレクセイが膝の上に座り込んでくる。


「かっこいいパパ、大好き。かっこよくないパパも、大好き」


 ……上目遣いでこう宣ってくれる息子は、確かに天使みたいだと思う。そんな私と息子を呆れながら愛情深く見つめてくれる妻は、私にとってかけがえのない存在だとしみじみと感じる。



 妻の名前はマリア・ミハイロエヴナ・ヴォドレゾワ。旧姓はモロゾワ。

 私の名前はユーリ・セルゲイエヴィッチ・ヴォドレゾフ。

 大抵の人は、私のことをこう認知している。ーー06年トリノ五輪、フィギュアスケート男子シングル金メダリスト、と。



 *


 トリノ五輪10周年記念のアイスショーをやらないか、と持ちかけたのは、ペテルブルク市内にあるテレビ局だった。プロデューサーは私の現役時代をよく知る人物で、元々はスポーツ局にいた人間だった。フィギュアスケートの担当で、私が出場したソルトレイク、トリノの二大会五輪に帯同したこともあった。


「トリノが終わった後、我が国のフィギュアスケートは少し弱体化してしまった。我が国で開催したソチ五輪では少し復活しましたが、それでも昔の栄光には程遠い」


 まだ暖かくなりきらない4月上旬。久しぶりにペテルブルク市内のカフェで会った彼は、眉間にしわを寄せながら、昨今の我が国のフィギュア事情についてダメ出しを重ねる。


 まちがってはいない言い草だが、異議を唱えたい言葉ではある。


 選手たちは優秀だ。十年間滑った選手の中には世界選手権のメダルまでは行かなくても、ヨーロッパ選手権のメダリストもいればGPシリーズの表彰台の常連もいる。ロシアの男子が弱くなったのではなく、日本をはじめとして周りの国の選手が強くなったのだろう。  


 また、私が子供の頃よりも、国からアスリートに与えられる援助金は格段に減った。国が、ソ連からロシアに変わったことも確実に影響している。地方のリンクは、国営から町営になり、赤字続きで閉鎖が相次いだ。そうなると行き場を失ったアスリートや指導者は、場所をもとめてモスクワかサンクトにいくか、思い切って海外へと移住する。アメリカ在住のロシア人コーチがアメリカ人を指導して五輪金メダルに導く……。笑えないがよくある話だ。


 選手のみの責任ではない。選手を育てる土壌が徐々にすり減っていったのだ。


 それでも選手にもとめてくるのは、絶対的な実力を持つアスリートだ。かつての最強ロシアを覚えている人間は数多い。この10年で何人の選手が、将来を嘱望され、潰れていっただろう。


 ……そんなことをいっても、目の前にいるプロデューサーには通じないかもしれないが。だんだんとダメ出しから苦言を通り越して酷評になっていった。特に男子シングルへの酷評がひどい。私はその間にブラックコーヒーを2杯注文し、プロデューサーのゴールデンアッサムは冷め切って、手付かずのモンブランがつまらなそうに居座っていた。


「ですが最近、ようやく男子にも見られる選手が出てきましたね」

「……アンドレイ・ヴォルコフのことですか?」


 その通り、と何故か彼は英語で答えた。


「彼こそ、昔のあなたを見ているかのようです。精度の高いジャンプ。綿密なステップ。昨シーズンのべートーヴェンこそ、まさにタイトル通り「皇帝」でした。……それに比べてほかの選手ときたら」


 再び苦言が始まる。特に、キリル・ニキーチンに対する苦言が凄まじい。目の前のプロデューサーとは長く親交があるし、スケートに対する良識的な見識も持っている。それだけに、止めづらかった。彼の言っている事は間違ってはいないのだ。だが、別にヴォルコフとほかの選手を比べる必要もあるまい。15歳のヴォルコフにはヴォルコフの、26歳のキリルにはキリルのいいところがある。……そんなことを言っても、目の前のプロデューサーには通用しないかもしれないが。


 プロデューサーのその言葉が出たのは、長い長い酷評の果てに、冷めきったゴールデンアッサムを一気に

飲み干した後だった。


「だからこそ、ではありませんが、この10年で、あなたを超える選手はいましたでしょうか? トリノからもう10年たちます。いかがでしょう。トリノ五輪10周年記念のアイスショーを、ここピーテルで開催してみては」


 あなたもこの街は長いのでしょう? と尋ねるプロデューサーは、生まれも育ちもペテルブルクだ。私は10歳の時、エカテリンブルクから母と二人でやってきた。


 トリノでアマチュアを引退してから、10年が経過した。ありがたいことに、私を召致してくれるショーは途切れたことがない。五輪を制するとはこういうことなのか、と感じたものだ。五輪王者として、ショースケーターとして、それにふさわしい滑り、技術を見せ続けること。アマチュアを引退してから、私の人生が本当に動き出したと言っても過言ではない。


 ……トリノの時の表彰台を思い出す。フリーは最終組三番滑走だった。プログラムはペールギュント組曲。

 私自身が待ち望み、私を支えてくれた全ての人に捧げるメダルを首にかけた時……。


「そうか。……もう10年経つのですね」


 今まで競技に対して持っていた全ての情熱を失ったのがはっきりとわかった。


 私の独白に、プロデューサーが目を細めて頷いた。……プロデューサー、ニキータとの付き合いも長い。彼は私のシニアデビューからスポーツ局のフィギュアスケート担当になり、私の現役引退とともにスポーツ局を退いてテレビに入局した。ずっと私の演技を見てきた、私の理解者の一人でもある。

 その彼の打診ならば、断る理由はない。


「やらせていただけるのなら」


「そうきてくれると思いました。とりあえず、今回は私が招致したいと思うスケーターのリストを持ってきました。目を通していただけますか?」


 自分の座った椅子のとなりにおいた黒革の鞄から、A4のファイルを取り出す。私はウェイトレスに3杯目のコーヒーを注文したのちに、彼が持ってきたリストに目を通した。

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