第11話 どうしたの?びしょ濡れだよ?

 次の日の昼休み。校舎裏で、飯を食べている時の事。


「ンマーい」


 一人で呟きながら一切理解出来ないでいる物理の教科書を読んでいると、突然上の方から怒鳴り声が聞こえた。

 正直なトコロ、それくらいなら日常茶飯事だから大して気になるようなモノでもないんだけど、今日は少しだけ事情が違った。何故なら、突然俺の頭に大量の水が降り注ぎ、教科書もろともビッシャビシャに濡らしてしまったからだ。


「……ムッカチーン!」


 残っていたおにぎりを口に放り込んで、水が放り出された窓まで向かう。結構頭にキてたし、何なら説教の一つくらいはかましてやろうと思っていたのだが、その窓のある部屋はなんと女子便所であった。

 これでは中に入るワケにはいかない。そして、一度冷静になってしまえば怒りというのは案外消えてしまうモノなワケで、そうなれば自分を見て深くため息を吐いてしまうワケで。行き場を見失った俺と俺の感情は、ポタポタと雫と共に体から離れていった。


「んだよ、チクショー」


 またも呟き、シャツのボタンを外しながらその場所を離れようとしたその時、トイレの中から涙ぐんだ声が聞こえて来た。


「……おい、大丈夫か?」


 割と変態的な試みだとは思ったけど、声の主が水を掛けられている事は想像に難くない。


「……ぐすっ。……ひっ。……えへ。えっへへ。えへへ」


 涙声は、いつの間にか下卑た笑い声に変わっていた。だから「そう言う感じか」と考えてその場所を後にしようと踵を返すと、突然そのトイレの中から一人の女子生徒が現れた。


「あれ、小戌君。どうしたの?びしょ濡れだよ?」

「……お前もな」


 それは、白いシャツを肌に張り付かせて、体のあらゆるラインを露わにした、少し頬を赤く染めた累木であった。しかし、俺は女を全く知らないけど、その表情が恥じらいの中に別の感情が入り乱れている気がした。


「一応訊くけど、何があったんだよ」

「えへへ、水掛けられちゃった。理由はよく分かんないけど、嫌われちゃったみたい」

「ツイテねぇな」

「まぁ、仕方ないよ」


 何故だろう。累木の顔が、あまり悲しそうに見えないのは。


「……そうか。まぁ、風邪ひかないようにな」

「小戌君もね」


 幻想が打ち砕かれていない事を信じて改めて見ると、胸や腹、それに太ももなんかを締め付けるような衣服を身に着けている事に気が付いた。むっちりとした余分な肉が、その上に乗っかっているのが分かる。


 ……いや、大丈夫。累木は普通だ。多分、ちょっと派手な下着を着けているだけだ。


 頭を振って歩き、考える。もし彼女があまり気にしてないとしても、誰かに水を掛けられているという状況は気に食わない。望んで掛けて貰ったならいいけど、口ぶりはそうではなかった。本人の気持ちがどうであれ、こういうしょうもない事をするヤツが俺はかなり嫌いだ。


「落ち着け」


 そうだ。俺は静かに幸せに生きる為にこの学校に来たんだ。こんな事で一々頭にキてたら、今までと何も変わらねぇじゃんか。そういうところから直していかないと、普通に生活する事なんて出来ない。

 クールにやろうぜ、小戌君。ほら、教科書だって確かにびちゃびちゃだけど、幸い文字は読める。弘法こうぼう筆を選ばず、だっけか。そんなことわざもあるじゃないか。だからさ、何とか平和的に解決する方法を……。


「おっ、劣等生の負け犬君じゃないか。汗凄いねぇ?」


 流し場でシャツの水を絞っていると、通りかかった同じクラスの成績上位者明石あけいしがケラケラと笑ってそう言って、教室へ歩いて行った。


 やっぱり、犯人は特定次第ブチのめします。


 × × ×


 手っ取り早く知る為に累木に話を聞こうと思ったのだが、彼女は技能テストの都合で午後の授業には参加していなかった。ホームルームにも帰ってこなかったから、測定を行う施設まで迎えに行こうと思って歩いていたその時。


「おっ、負け犬君。こんな所に一人で、どうした?」


 呼び止められた。さっきの明石の時もそうだったけど、俺のあだ名はいつの間にか『負け犬君』になっているみたいだ。あんまり気分のいいモノではねぇなぁ。


 こいつは、クラスメイトの坂邊さかなべ。周りのヤツは大路おおじ整井ととのいだ。いずれもトップクラスとは言えないが、上から数えた方が早い有能たち。


「累木に話があってな。ちょっと、迎えに行こうと思ってたんだ」

「へぇ、俺の仲間のところにいるってさっき連絡があったぞ。来るか?」

「マジ?行くわ。お前めっちゃいいヤツじゃん」


 という訳で、誘われるままに着いて行くと、そこは体育館の裏にある暗いスペースだった。


「どうしてこんな所に?」

「先輩たちに教えて貰ったんだ。ここ、教師が絶対に来ないらしい」

「教師が来ないと、どうしていいんだ?」

「……お前、バカなのか?」


 なぜ質問に答えてくれないのかはよく分からなかったが、累木のところへ連れて行ってくれるのであれば何も問題はない。そう思っていた。

 しかし、ジメジメとした角を曲がって目に飛び込んできたのは、跪いて左の頬を腫らせ、抑えながら弱々しく微笑む累木の姿だった。その向こうには、何人かの男女がたむろしている。ガラの悪い連中だが、年上だろうか。


「……どうした、大丈夫か?見せてみ」


 駆け寄ってしゃがむと、彼女は驚いたように俺を見た。


「おい、負け犬。勝手に何やってんだよ」

「お前らか?」

「あぁ?」


 俺、ホントに嫌いなんだよ。こういう下らねえコトをするヤツ。どうして恵まれた場所で生きて何一つ不自由が無いはずなのに、他人を傷つけようとするんだよ。お前らは、誰かから何かを奪わなくても生きていけるじゃねえか。


「寄ってたかってよ。それに、累木は女なんだぞ」

「だったらなんだよ。つーか、お前もサンドバッグとして連れてこられてんの、まだ気づかねえのか?流石、勉強も技能も成績最低の負け犬は、俺たちとは頭の出来が違ぇなぁ!?」

「累木。このハンカチ、当てとけ。水が降ってきたおかげで、まだ少し冷たいぞ」

「あ、ありがと」

「何シカトしてんだこのボケ!!」


 坂邊は、技能スペックを使わずに俺に蹴りを見舞ったが、それをキャッチして突き返すと、他の仲間にもたれ掛かって倒れた。


「どいつが一番強いんだ?お前か?」


 一番奥で、女を侍らせている男を指さして訊く。前髪が長くて金髪で、昔に歌舞伎町でよく見たホストみたいな恰好をしている。殴り甲斐のある、イケメンだ。


「お前が一番強ぇなら、ブチのめすのは最後にしてやる。教えろ」

「くっくっ。なにクソ生意気な事ホザいてんだか。見りゃわかんだろ、ゴミ」

「そうか。……ヒート」


 拳を握って、半身に構える。囲まれたのを見計らって、大きく息を吸い込んだ。


「来なよ、やっつけてやる」

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