第5話

さらに数ヵ月後、魔王と聖女はある場所を訪れていた。


 いくつもの大木が絡み合ったような幹は複雑な曲線を描き天へと伸びている。花が開くように伸びた枝からは濃淡様々な瑞々しい葉が生い茂り、強い日差しを和らげている。アルムテイル神聖国から遥か遠く、魔族領よりも更に奥地に千年樹と呼ばれる御神木があった。ドラゴンと一緒ではないと辿り着かないとされる秘境。


 そこを住みかとする一匹の白銀のドラゴンが、木漏れ日の下で寝そべっていた。鏡のように世界を反射する鱗を一枚一枚、魔王は指で撫でていく。冷たく滑らかな触り心地を堪能したいところだが、あまり執拗に触れているとふたつの冷たい視線が鋭くなっていく。


 ひとつは鱗の持ち主のブランジュ。が『それ以上はセクハラだ。さっさと終わらせ』と念話でも訴えている。

 もうひとつは千年樹の若葉と変わらぬ美しい瞳の持ち主、聖女レティシア。ブランジュが雌だと知っていて向けてくる、一種の闇が含まれた目線は怖いのに嬉しい。だからわざとゆっくり鱗に手を滑らせたくなってしまうが、長くは続かなかった。



「あ、ここかな?」



 不自然に浮いている鱗を一枚見つけた。その裏に手を滑り込ませれば柔らかな鱗が出来上がっている。魔王は顔のサイズほどの鱗に両手をかけて、力一杯引き剥がしにかかる。


「――くっ」


 生え変わりのタイミングを狙ったが、さすが神の化身の鱗は魔王からしても硬い。歯を食い縛り更に力を込めれば、パキリと軽い音ともに外れた。白金のような重厚な見た目とは裏腹に羽根のように軽い。



「ブランジュ、分けてくれてありがとう! 聖女よ、持ってみるか?」

「はい……なんて美しいのでしょう。どんな宝石も霞んで見えてしまいそうですわ。さすがブランジュ様ですわね」



 聖女がうっとりと鱗に見惚れ誉めると、ブランジュは目を細めて聖女の背中に頬擦りをした。数ヵ月前にブランジュと聖女を引き合わせてから、随分と距離が近くなっていた。魔王は真っ直ぐに眺めているとパチリと聖女と目があった。



「魔王様?」

「なんでもない。さて、職人が待っているだろうから帰るとしようか」



 タイミングを見計らったように、魔王の瞳と同じ赤色のドラゴンが降り立つ。ブランジュより一回り小さいが骨格が太く、尾の先は常に火が灯っている。人族の襲撃の際に毎回相棒にしている紅蓮のドラゴン『ルージュ』だ。飛び方が荒く、特注の鞍が装着されている。聖女を後ろから包むように魔王が首元を跨ぎ、手綱を握れば一気に空へと巨体を上昇させた。あっという間に千年樹が小さくなっていく。



「魔王様、少し近すぎます」

「仮面とはいえ夫婦なのだ。良いだろう? 大切な聖女が落ちては困る」

「……」


 聖女が耳をほんのり赤く染めて顔を俯かせる。魔王は上機嫌に、甘そうな蜂蜜色の髪の頂きに顎を乗せた。

 でもそれ以上は踏み込まない。あの日己の心に芽生えた感情は厄介で、判断を鈍らせる。だから本音を聖女に悟られず、楽天家を演じ、ただ来る日を迎えるまでの一時を楽しもうと思っていた。


 聖女の温もりを堪能していると、彼女は肩にかけていた鞄から小さな包みを取り出した。



「魔王様、まだ移動は続きます。今朝クッキーを焼いたのですが、お一口いかがですか?」

「菓子か。我は手が塞がっている。聖女の手からくれるのかな?」

「えぇ、宜しいですよ。これは料理人と相談して、魔王様のためだけに作った特別なクッキーなのです。はい、あーん」


 魔王は胸を踊らせ、聖女の肩口で口を開けた。この時、浮かれていた魔王は背を向けている聖女の表情に気付かなかった。クッキーに歯が当たるとサクッと音を立てて崩れ、口一杯に甘さと香ばしさが広がり、次を口にするために飲み込んだ。そして――


「かっ――はっ、な、これは、まさか……うぐっ」


 手綱を手放し、両手で胸と喉を押さえる。焼けるような熱さと激しい痛みが襲い、喉から黒い煙が吹き出た。振り返った聖女の表情は悪巧みが成功して嬉しそうな、妖艶な笑みを浮かべていた。



聖なる力妻の愛情たっぷりで美味しいでしょう?」

「あ、あぁ……最高だよ」



 体の内側から聖なる力で攻撃されたのは生まれて初めてだった。体外から受けるよりも強い効力に歓喜し、その手法に至った聖女の発想に感心した。しかも眷属を巻き込んでの諸行だ。


 ルージュは二人のやり取りが面白く、身体を揺らして笑った。聖女は慌てて手綱を握ったが、脱力した魔王の体はルージュの背を転がり落ちていった。

 これで死ぬとは思っていない聖女もルージュも助けようとはしない。むしろルージュは業火を吹き付け、地上へと追い落とす。黒い塊があっという間に森の中へと姿を消した。



「……ルージュ様、魔王様はひとりで龍の森を出られますでしょうか?」



 現在地がドラゴンの聖域であると思い出した聖女は心配するが、ルージュは楽しげに炎を吐いて優雅に空を旋回した。







 城に着くと傷跡ひとつない魔王が仁王立ちで笑顔を浮かべ待っていた。魔王は膨大な魔力を消費して転移を数回繰り返し、先に帰還に成功していたのだった。むしろルージュのお転婆飛行で聖女の方がヨレヨレだ。



「やはりあの程度では死にませんでしたのね」



 聖女がしれっと魔王に駆け寄る一方で、ルージュは巨体を震え上がらせた。


「ルージュ、分かっておるな? 我がどのような姿で外を彷徨うハメになったか」


 服は業火で燃え尽き、この世が恐れる魔王が素っ裸でドラゴンの森を脱出しようと転移する姿は言葉もない。ルージュは悪ノリしてしまう癖を後悔し、慌てて空へと逃げた。ドラゴンでもルージュ程度では魔王相手に勝てないのだ。


「あいつめ……はぁ」


 ルージュを見送った魔王は諦めのため息をついた。そして笑顔を再び表情に乗せ、輝くような瞳で聖女を見た。



「聖女よ、次はマドレーヌで頼む! 愛情は倍量で」



 まわりに控えていた『愛情』の真意を知る眷属は主のM的な変態発言にドン引し、顔をひきつらせた。聖女は魔王の変態具合に慣れたもので、女神のような微笑みで返す。


「倍量とは言わずに、限界まで込めましょう。首が朽ちて落ちるほどたっぷりと……ふふふ」

「あぁ楽しみにしている」



 この異種族夫婦は知らない。魔族たちから『変態魔王』と『死神聖女』と畏怖を込めて呼ばれていることを。

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