三人の姉と僕のごくごく平凡な休日 作:秋月渚

 実に唐突であるが、姉という存在はいったいどのように定義すればいいのだろうか。


「そんなこと簡単だろ、なごみ。お前よりも先に生まれていて、性別が女で、お前と血縁関係がある。これ以上に複雑になることはあっても、シンプルになることはないだろうからな」


 なるほど、と僕――伊瀬嶋いせしま和は頷く。そんな僕のことを包むようにして、タンクトップ姿の女性が抱き着いてくる。あつい。


「それにしてもどうしたんだよ、いきなり姉について考えるなんて。アタシのことがそんなに気になるのかぁ~?」


 顔の横でやけにフレームの大きな眼鏡が揺れる。その眼鏡顔に合ってないんじゃないか? そんな僕の考えが伝わったのか、彼女は「うりうり~」と言ってぼさぼさの頭を押し付けてくる。ぐえ、首が、首が絞められてる…………。


和香わか、和の顔が赤を通り越して青になりかけてるわ。放してあげなさい」


和花のどか姉! ってかホントじゃん、わー、ごめんよ和ぃ!」


 息苦しさから解放された僕は、本能に従って大きく息を吸い込む。後ろを振り返ると、黒髪を胸元まで伸ばした小柄な女性が、自分より三十センチほど高いショートの女性に向かって説教している。割と見慣れた光景だが、それだけに安心できる。


「和香姉さん、僕はもう大丈夫だよ」


「いや、アタシも悪ふざけが過ぎたな」


 僕を労わるように抱きしめて後頭部をなでてくる和香姉さんの後ろで、和花姉さんがうんうんと頷いている。和花姉さんは小柄で童顔であるために普段から僕らの妹のように見られがちだが、両親のいない猪瀬倉家の大黒柱として精力的に働いてくれている。


 そうこうしていると、リビングのドアが開いてツインテールの女性が顔を出す。僕の二番目の姉、和音かずね姉さんだ。


「わーかー」


「どしたの、かずねぇ。アタシ今日はなんもしてないぜ?」


「や、別にそういうのじゃなくてさ。私の買い物に付き合ってくれないかなーって」


「…………かずねぇの買い物めちゃ悩むかめちゃ買うかの二択じゃん」


「いいでしょ、付き合ってあげなさい」


「和花姉が言うなら仕方ないな。ところで、和はどうする? ついてくる?」


 そう問われた僕は、和花姉さんの方を向く。それだけで意図を察した和花姉さんは静かに首を振る。


「三人で行ってらっしゃい。わたしはお留守番しているわ」


「そう? なら僕も買い物に行くよ」


 そう答えた僕は、一度着替えるために自室へ向かった。着替え終わって部屋のドアを開けると、すでに二人の姉は玄関で靴を履いていて僕を待っていたようだった。


「お待たせ」


「うし、じゃあ行くか。つっても今日はかずねぇに付き合うわけだから先導は任せるけど」


「そんな変なもの買うわけじゃないし、二人が買いたいものあったら買いに行ってもいいわよ?」


「あ、マジで? じゃあアタシ新しい靴が欲しいんだけどさ」


「はいはい、和も遠慮しなくていいのよ?」


「いや、僕は大丈夫かな」


「そう? ならいいけど」


 僕たちはそのまま電車に乗って目的地へ向かう。今回和音姉さんは本とインテリアを見たいらしい。そのために僕たちはまず家具量販店へと向かい、本屋のある大型商業施設に向かう途中で和香姉さんの靴を見る予定だ。


 結局家具量販店では和音姉さんのお気に召すものが見つからず、僕たちは割と早くに大型商業施設に来ていた。


「お腹すいたな。フードコートでお昼にしない?」


「そうは言ってもまだお昼前よ? 私まだお腹すいてないもの」


 和音姉さんがそっけなく言うと、和香姉さんは肩をすくめて黙ってしまった。僕の意見は当然問われない。猪瀬倉家は年功序列の家庭なのだ……。


 閑話休題。


 そういうわけで僕たちは先に和香姉さんの靴を見るために移動していた。


「あ」


「ん、どうかしたのか、和」


「いや、クラスメイトが見えたからさ」


「ふぅん……」


 和香姉さんは和音姉さんと顔を見合わせると、僕の方を向いて肩を叩いた。


「アタシたちは先に靴屋行ってくるから、そのクラスメイトと話して来いよ。待ち合わせ場所はあとでメッセージ送るから」


「え、あ、うん。ありがとう」


 後でな、と言ってもう一度肩を叩いた和香姉さんは、和音姉さんと共にすぐに人ごみに紛れる。それを見送った僕は、先程見えた小柄な影を追う。


「や」


「…………ああ、伊勢嶋か。どうしたんだ、こんなところで」


「こんなところ、って樺山かばやまも来ているじゃないか」


 和花姉さんよりも小柄な、おかっぱ頭の少女。彼女は名前を樺山論理という。僕がクラスで唯一気兼ねなく話せる相手である。樺山にとって僕は社会とのハブのようなものらしいが。


「私は暇だったからな、クレーンゲームで散財しようかと」


「上手いの?」


「自慢するほどではないが、ぬいぐるみに五千円ぐらいはかけるな」


 上手いのか下手なのかいまいち分からない例えだった。


「それで、伊勢嶋はどうしてここに?」


「ああ、姉さんの付き添いだよ。靴と本を買いたいんだってさ」


「一緒に行かなくてよかったのか?」


「姉さんたちも僕も子供じゃないよ。大丈夫でしょ」


「それもそうね。それで、今日きているのは誰なのかしら」


「え? ああ、和音姉さんと和香姉さんだよ」


「あら、和花さんは来ていないのね」


「あれ、樺山に姉さんの名前言ったことあったっけ」


「少し前に会ったことがあるのよ。三人とも」


「マジか。姉さんそんなこと全然言ってくれないからなぁ」


「まあでも、元気そうでよかったわ。いえ、死にそうな顔をしているけれどまだこの世界にしがみついているようで無様だわ」


「言い換えるにしたってもう少し手心を加えてくれてもいいんじゃないかな! というかその言い方は僕元気じゃねえだろ!」


「ふふっ」


 口元に手を当ててころころと笑う樺山。まあ、樺山にも悪気があるわけではない、らしい。本人談なのでどこまで本心なのかは定かではないが。


「でも、顔色があまりよくないのは事実よ。水分をちゃんと取って少し休むことね」


「あ、そう? じゃあ何か買うかな」


「私が買ってきてあげるわよ。そんな顔でよろよろ歩かれたら周りにも迷惑がかかるわ」


「そんなに僕はひどい顔をしているのか……?」


「いつも通りのひどい顔だわ」


 それ、単に僕の顔をディスりたかっただけだろ、いい加減にしろ、と言おうとしたところで僕の身体がぐらりと揺れる。


「ほら、言わんこっちゃない。そこのベンチで休んでなさい、この私が直々に飲み物を恵んであげるのだから」


「そんな言い方をするから自分で買いに行きたいんだろうが……うう」


 自分でも自分の声に元気がないことが分かる。今日はそんなに出歩いていないはずなんだけどな。


 仕方ない、と僕は近くのベンチに座って背もたれに体重をかける。それを見ていた樺山が満足そうに頷いてどこかへ歩いていく。しばらくして、彼女はペットボトルを二本持って僕の隣に腰かけた。


「はい、これ」


「…………ただの経口補水液?」


「失礼ね、体調が悪そうだったからちゃんと選んであげたのよ」


「悪かったよ。それで、いくらだった?」


「二三〇八円」


「そんなに高いわけないだろ! …………うぅ」


「ほら、そんなに大声を上げるから気持ち悪くなるのよ。もうこれ以上気持ち悪くならないで頂戴」


「その悪意のある言葉をやめてくれたらすぐにでも気分がよくなりそうだよ」


「あら、私はただあなたが気持ち悪かったから素直に口にしただけなんだけど。あら、言い間違えたわ。あなたが気持ち悪そうだったから、ね」


「たった三文字抜けただけで意味が大きく変わるんだよ!」


 くすくすと笑っている彼女を横目に、僕は受け取ったペットボトルの栓を開け、中身を飲む。…………おいしくないが、僕の体調がそれだけよくないということなのだろう。


 そのタイミングで、僕の携帯にメッセージが届いた。


『靴買い終わったから三階のフードコートに集合! もしよければクラスメイトも誘っていーぞ』


 僕はその画面を樺山に見せる。しかし彼女は首を横に振って「今日は激辛ラーメンを食べたい気分なの」といった。確かに、それはフードコートにはなさそうだ。


「じゃあ、また明日、かな」


「そうね、伊勢嶋がぶっ倒れて休まない限りは、また明日」


 最後まで樺山は樺山だった。


 樺山と別れた後、僕は足早にフードコートを目指した。あまり遅くなると和香姉さんに何を言われるか分からないからな。


「おっせーぞ和ぃ!」


 だめだった。


 罰として僕は姉さんの選んだ昼食を食べる羽目になっていた。…………罰ゲームになるのか、これ?


「はい、和の分な。ちゃんと食べろよ?」


「あー、和、無理はしちゃだめだからね」


「…………こんなものまで売ってるんだね、ここ」


 目の前には赤いスープ。なんだか空気まで刺激的だ。上に野菜が乗っているが、正直辛さを和らげることができるようには見えない。麺の色がスープの赤と相まってより鮮やかに見える。まあ、要するに。


 激辛ラーメンが僕の前に鎮座していた。


(樺山ぁぁぁぁぁぁぁ!)


 心の中でクラスメイトの名前を叫びながら僕はラーメンに立ち向かう。麺をすする。野菜を食べる。麺を食べる。スープにはなるべく手を付けないように食べるが、麺はしっかりとスープと絡んでおり、口の中を蹂躙じゅうりんする。先程貰った経口補水液を飲み、姉さんにフードコート備え付けのウォーターサーバーとテーブルの間を何往復もしてもらって、ようやく麺と具を食べきった。


「…………流石にスープは許してください」


「ま、いいだろ」


 見れば姉さんたちはすでに食べ終えて、トレーも店に返し終えているようだ。


「よし、じゃあトレーは返してきてやるよ」


「…………ありがとう」


 ぐったりとテーブルに突っ伏しながら僕は和香姉さんに礼を言う。まあこの状況に陥っているのは和香姉さんのせいなんだけど。


 その後は適当にモールの中をぶらぶらとして、和花姉さんへのお土産を見繕ってから家へと帰った。


「ただいまー」


「おかえりなさい。二人は気に入ったものは買えたのかしら?」


「アタシはばっちり」


「私はインテリアの方はさっぱりだったけれど、面白そうな本を見つけることはできたわ」


「それは良かったわね」


「あ、それとこれ、和花姉にお土産」


「あら、開けてもいいの?」


「もちろん。そのために買ってきたんだし。あ、選んだのは和だよ」


「あら、和香が選ぶより安心できるわ。…………へぇ、可愛らしい髪留めね」


 和花姉さんが袋から取り出したのは、花の模様があしらわれたバレッタだ。僕らの中で一番髪が長い和花姉さんは、仕事に行くときに髪をまとめている。そんな時に使えるんじゃないかな、ということで相談して買ったのだ。


「ふふ、留めてみた感じはこうかしら。ねえ、和、似合ってる?」


「うん、もちろん」


「髪をまとめている和花姉はよく見るけど、そういうふうに髪留めを使ってるのはあんま見ないからなんか新鮮だね」


「別に持ってないわけじゃないのよ? ただ普段使っているものの方が楽っていうのもあるけれど。でもそうね、せっかく和が選んでくれたのだから、これを普段使いするものにしてもいいかもしれないわね」


 そう言って和花姉さんがにっこりと笑う姿は、とても綺麗だった。


 その笑顔を見ていると、不意に先程の樺山との会話を思い出した。


「そういえば姉さんたち、樺山と会ったことがあるんだね」


「カバヤマ……ああ、論理ちゃんね。ちょっと前に話したことがあったのだけど、何の話をしたのかは忘れちゃったわ」


「へぇ、樺山がどんな話をしていたのかちょっと気になったけど、それなら仕方ないね」


「ふふ、女の子同士の会話に首を突っ込むのはお勧めしないわ。…………あら、はい伊勢嶋です」


 釘を刺された僕は、電話を受けながら片手で謝る和花姉さんに手を挙げて答えつつ自室に戻る。今日はなんだか疲れた。口も痛いし夕飯まで眠るとしよう…………。




「今日、和の様子は変じゃなかったかしら?」


『そうですね、いつもと変わらずでしたよ』


「それはあなたの言うところの『死にそうな顔』というやつかしら」


『伊勢嶋……いや和から聞いたんですか』


「そうね、たまにあなたの話を聞くわ。まあ当然といえば当然のことなのでしょうけど」


『…………あなた達ほど強くはありませんが、まあ厄介な体質というやつですよ』


「厄介、ね。わたしはこの体質でよかったと思っているけれど」


『弟のことがちゃんと“視える”から、ですか』


「ええ。それが一番。もう一つは稼げるから」


『…………お金があれば世は事もなし、ですか』


「そこまでは言わないけれど、あって困るものではないもの。多少のリスクと引き換えに家族を養える。わたしにとってはそれが大事なのよ」


『大変なんですね。いえ、弟が幽体離脱したうえ自分の現状に気が付いていない、なんて状況が大変でないわけがないですが』


「和は視る力が弱かったから厄介事も少なくていい子だったけれど、まさかこんな隠し玉を持っていたなんて思わなかったわ」


『別に幽体離脱は大道芸じゃないんですよ、和花さん』


「ふふ、そうね。じゃあ、明日からも和のことよろしくね、論理ちゃん」


『名前で呼ばないでください、好きではないので』




 翌朝。僕が学校に行くためにマンションを出ると、道路の反対側に樺山が立っていた。僕が手を振ると、控えめに振り返してくる。


「珍しいね、樺山がうちの近くに来るなんて。通り道なのは知ってたけどさ」


「私だって鬼ではないわ。昨日ゾンビみたいな顔をしていたクラスメイトが、今日になってもゾンビなのかどうか確かめたいもの」


「それは僕の顔色がよくなったのか確かめたかったって意味でいいんだよな?」


「フッ」


「鼻で笑うな! 曖昧な言い方をするから確認したんだろ!」


「朝から元気ね。とても病人だとは思えないわ」


「……………………そーだな」


 僕は肩を落としながら一歩を踏み出した。


 こうして、僕の平凡な毎日は続く。

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