第122話

 車に揺られて思わずウトウトしながら、窓の外を流し見していた。

 空は真っ赤な夕焼けが輝いていて、冬と比べて陽が伸びたんだなあと、そんな感想を抱いた。

 今日は、久しぶりに家族水入らずで外食に行く日だ。

 外へご飯を食べに行くのって、特別感があるからテンションが上がるよね。おまけに、目的地はコース一人数万円するような高級料理店だ。

 昔から食事作法の練習も兼ねて格式高いお店には連れて行ってもらっていたけど、良いお店は、料理以外のところでもきめ細かなサービスを行っているように思う。

 だから、俺の中では一種のアトラクションのような感じで楽しめるから好きなんだよね。

 行きの車の中でも、俺はどのような料理やサービスが提供されるのか、ウキウキが止まらなかったよ。


「……今日のはどんな料理かな」


 ぽつりと呟くと、父さんが反応する。

 やばい。


「楽しみにしていなさい。何せ今日の店は——」


 やっぱり始まった。

 明前家にとってもはや恒例ともなっている、これから行くお店に関する長い長ーい解説。

 料理がうんたら、立地がうんたら……始業式や終業式の校長先生の挨拶くらい長いのです。

 最も、玲明学園長の挨拶は短くまとまっているので、生徒からしたらありがたい話だ。

 父さんには是非とも見習ってほしい。


「あなたったら」


 そしてそんな時、我が家では母さんが助け船を出して、会話の相手を引き受けてくれるのが常だった。


「そんなこと言って、料理よりもワインの方が楽しみなのでしょう?」

「む、いや、それは否定しないが……」


 外食をすると、父さんは料理をそこそこにワインや日本酒に手を出し始めるのがお決まりだ。

 明前家の運転手さんがついているとはいえ、飲み過ぎには気をつけて欲しいね。

 酔っても普段と調子は変わらないように見えるから、お酒に強い体質なのかもしれないけど。

 父さんと母さんは、そのまま二人で話し始めてしまったので、俺は再び窓の外をぼーっと見つめて——窓に反射した姉さんと目が合った。


「……」

「姉さん、どうかした?」

「……別に」


 この前、映画を観に行って以来、姉さんはこんな感じで様子が変な時があるのだ。

 一方、莉々先輩は以前に増してサロンとか廊下で会った時に親しげに声をかけてくれるようになった。

 露骨にボディタッチが増えた気もする。

 いやはや。

 モテる男は辛いね。


「……」


 その分、周りの取り巻きたちから向けられる嫉妬の視線が厳しくなったけど。

 モテる男は辛いね。

 そんなわけで、弟が取られるとでも思ったのかもしれないと勝手に予想している。

 姉さんったら、なんだかんだ言って俺のこと好きなんだから〜。

 と、窓越しに生暖かい視線を送っていたら、


「咲也」

「はい?」

「はあ……何か勘違いしているみたいだから教えてあげるわ」


 考えを読まれたのか、溜息をつかれた。


「思い出しなさい。莉々は来るもの拒まず、去るもの追わずで寄ってくる男を転がすのが得意なのよ?」

「……」


 姉さんの言葉で思い起こされるのは、生徒会メンバーだけで行われる年明けのパーティー。

 たしかに、莉々先輩の周りには彼女を心酔する男子生徒が群れを作っていた。

 少しでもお近づきになりたい、顔を覚えてほしいと、あの生徒会メンバーたちですらも籠絡させる魔性の持ち主。

 それが思川莉々という人だ。

 そうでした。

 すっかり忘れてたよ。

 あの手の女性は、自分の思い通りにならないものには興味を持つけれど、自分のものになった途端に興味をなくすタイプだ……!

 ギャルゲで見たことあるぞ!


「姉さん、ありがとう。目が覚めたよ」

「え? あ、そう。なら良かったわ」


 危うく騙されるところだった。

 姉さんと、あと俺にギャルゲを布教した某マエストロにも心の中で礼を言っておく。

 とはいえ、あんな美人に可愛がってもらったら、誰でも勘違いしちゃうとは思う。

 綺麗な薔薇には棘がある。

 きちんと心に刻んでおこうと誓った。


 その後、到着したお店ではゆっくりと時間をかけてコース料理をいただいた。

 期待を裏切ることなく、見た目も味も、配膳すらも楽しめるような極上の食事だった。

 お腹も心も満たされたよ。特に、お腹に関してはもう一杯だ。意外とこういうコースってゆっくりたくさん食べるから、お腹いっぱいになるよね。

 ワインに集中し始めた父さんから手付かずの料理をもらったりしたから、実質一・五人前くらい食べているので尚更だ。

 いやあんなに話したんだから酒だけでなく料理も食べなよ、と思ったが母さんが言っても聞かなかったから無駄だろう。

 ともかく、料理はとても美味しかった。

 個人的には最初にサーブされる前菜が好きなんだよね。大体はお酒に合わせた品だから一口二口で食べ終わってしまうけど、それだけ大皿で食べたいくらいには好きだ。

 そういう意味では、父さんが外食時にお酒ばかり飲む理由がわかるような気もする。前世でお酒を飲んだことはなかったけどね。

 さて。

 メインの肉料理、食後のデザートと続き、今は食後のコーヒーを嗜んでいるという頃合いだ。


「ちょっとお花摘みに行ってきます」

「咲也、それ女性が使う言葉よ」


 不意にお手洗いに行きたくなったので、断りを入れて離席する。姉さんのツッコミは聞かなかったことにした。

 廊下へ出る。

 今日のお店は、都内のビル高層階にある夜景も楽しめる場所だ。

 こういう高層ビルの中に入居しているお店は、店内にトイレがなく、廊下へ出なくてはならないこともある。

 少し不便さを感じるけど、お店の空気は少し息が詰まる時もあるから、気分転換になって助かる時もあったりするんだよね。

 さて、トイレはどこだったっけ。

 お腹も満たされ、鈍重なステップで目的地を目指すものの、道すがら他のお店の様子も気になってメニューをそっと見る。

 うわあ、どれも美味しそう。

 今日は洋食だったから、次は和食がいいなあ。いや、中華も捨てがたい。

 なんて考え事をしながら廊下を歩いていると、あっという間に目的地が見えてきた。

 そこで、

 

「……うう」


 女の子がお腹を押さえて床にうずくまっているのを見つけた。


「どうかした?」


 慌てて駆け寄る。


「大丈夫? 返事できる?」

「う……?」


 そっと声をかけると、少女はわずかに顔を上げた。

 顔面蒼白。

 体調が悪いとすぐに分かるような状態だった。


「お腹が痛いのかな?」


 優しく問いかけると、少女は首だけ縦に動かして答えてくれた。

 腹痛ならば、俺の能力を使えば良くなるだろう。

 と思っていたら、


「うぇ……」

「気持ち悪いのもあるんだね」


 えずき始めてしまった少女の背中を、断りを入れてからそっとさすってあげる。

 お手洗いはもう目と鼻の距離だが、廊下にうずくまってしまうくらいだから、これ以上歩くのは厳しい状態のはずだ。

 吐きそうなら吐いちゃった方が楽になることもあるし、ここは無理に動かさない方がいいかな。

 考え込んでいると、彼女は身体を強張らせて、いよいよ辛そうな表情に変わってきた。

 なので、咄嗟に来ていた上着を脱いで、風呂敷の要領で袋状にすると、少女の口元を覆い隠す。

 厚めの良い生地を使っているから、これなら多分液体でも漏れる心配はないだろう。


「ご、ごめなさ……うぇ……っ」


 少女は絞り出すように謝罪すると同時に、身体をさらに丸めて胃の中のものを吐き出した。

 辛かったね。

 俺よりも少しだけ歳下だろうか、小さな背中をさすっていると、自分も辛い気持ちになる。

 食べ物で当たったのだろうか。

 可哀想に。


「大丈夫だよ。ほら、深呼吸して。もしまだ出そうなら全て出しちゃいな」


 介抱を続けていると、吐いて幾分か楽になったのか呼吸も落ち着いてきた。

 そのため、俺は少女へ動かず待っているよう伝えてから、汚れた上着を持って男子トイレの個室へ駆け込んだ。

 まずは吐瀉物を便器の中に流し込んだ。

 汚れた上着は洗面所で軽く水で流した後、丸めて袋の口を閉めるように袖を縛る。

 俺は(前世で)慣れているから気にしないけど、高層ビル上層階のレストランフロアの客層を考えると、こういった汚れに文句を言う人もいるかもしれない。

 なるべく人目につかないように処理しないと。

 ひとまず後処理は終わったので、女の子の元へ戻ると、さっきよりもさらに顔色が戻ってきていたのでホッと胸を撫で下ろす。


「あの……」

「調子が戻ってきたみたいだね。良かった」


 申し訳なさそうにしている彼女の話を遮り、努めて明るい調子で話しかける。

 体調を悪くして戻してしまうなんてこと、誰でも通る道だからね。

 せっかくこういう場所で食事をしているのだし、嫌な思い出にしないでほしいからね。


「俺の能力で治癒出来てるはずだから、そのうち楽になると思うけど、無理はしないようにしてね」


 背中をさすってあげている最中、能力が使われているはずなので、体調は直に良くなるはず。

 それにしても、触れてるだけで効果が出るって我ながら便利な能力だ。


「ありがとう、ございます……」


 顔色も少し良くなり、立って歩けそうなくらいには回復している様子だったので、肩に捕まってもらい、ゆっくりと近くのエレベータホールにあるソファを目指すことにした。

 彼女も素直に頷いて、言う通りについてきてくれた。

 幸い、ホールのソファは誰も座っていなかったので、そこに腰かけてもらう。


「ここで少し休んでから戻ると良いよ」


 さすがに、廊下というか地べたに座って休めというのは可哀想な話だからね。

 エレベータを待つ人用にソファが置いてあって良かった。

 さて、俺の役目はここまでかな。


「じゃあ、俺はこれで」

「あの! ありがとう、ございました。でもその、服が……」


 言いづらそうに、少女は俺の手元の上着(だったもの)に視線を向ける。

 俺よりも歳下だと思うけど、きちんとしている子だ。


「安物だから気にしないで」


 本当は多分安物ではないけど、まあ洗えばまだ着られるからね。


「じゃあね」


 後ろから少女の呼び止める声が聞こえたけど、そのまま俺はお店に戻った。

 ふっ、名乗る程の者ではございませんってね。


 家族の元へ戻ると、


「ずいぶん長かったが、体調でも悪いのか?」


 珍しく父さんが心配そうにしていた。

 後ろめたいことはないけど、正直に話すと追及が少し面倒なので、適当に誤魔化しておく。


「難産だったんですよ」

「咲也さん、言葉遣いがお下品よ……」


 母さんから訝しげな視線を向けられてしまったので、素直に謝っておく。

 すると、

 

「あら、上着はどうしたの?」


 姉さんが不思議そうに首を傾げた。

 よく気づくなあ。

 いや、至極真っ当な疑問か。


「えーと……」


 汚れた上着は、さすがにそのまま着るわけにもいかなかったので、お店の人に事情を話してビニール袋に入れてもらい、そのままクロークに預けてあるのだ。


「その……」


 何て誤魔化そうか。

 たかがお手洗いで上着がびしょ濡れになることなんてないもんね。

 何か良い言い訳はないものか……。

 水、びしょ濡れ……。


「そ、そう! ウォシュレットが勢い最大になってまして、驚いて立ち上がった拍子にびしょびしょになってしまったんです!」

「ええ……」


 引かれた。

 あれ、姉さん。どうして物理的にも椅子を少し離したのですか。

 そして、なぜ父さんと母さんも顔を引き攣らせているのですか?


「新しいものを買うから、その上着は捨てなさい……」


 見かねた父さんから提案されたものの、


「洗えばまだ着られますよ」


 と、固辞した。

 勿体無いし。

 服はお店に預けてあることと、帰ったら使用人さんに洗ってもらうことを伝え、俺は食後のコーヒーに戻ることにした。

 父さんはまだ何か言いたげだったが、優雅に香りと苦味を楽しむ。というか、気づかないふりをした。


「ふう……」


 やっとこさ一息。

 人助けをした後のコーヒーは格別だ。

 喉を通る苦味(ミルクと砂糖入り)を楽しみながら、ふと俺は仄かに自分の下半身を蝕む感覚に気がつく。

 あれ、用を足してなくない?

 まずい。

 もう一回行く……のは絶対に怪しまれるよねえ。

 よし、仕方ない。ここは我慢だ。


「……」


 後から聞いた話。

 自らの下半身と闘うケツイを固めた俺は、自分では戦陣に赴く武将のような顔つきだったと自負しているが、実際のところそれはそれは間抜けなスポンジ◯ブのような顔をしていたらしい。

 姉さん曰く。

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