第113話

 春の陽気さが急速に鳴りを潜めて、雨の日が増え始めた頃。

 昼下がり、お昼ご飯も食べ終えて、午後の授業が始まるまでの暇な時間、俺はぼーっとしていた。

 文字通り、本当にぼーっとしていた。

 理由は簡単。

 体育祭が終わって間もないのに、その余韻はすっかり冷めて、目前に迫る中間試験に意識を持っていかれているからだ。

 勉強は好きだけど、もう少しあのお祭り感を味わっていたかった。

 周囲では、時折体育祭で活躍した男子が誰々と付き合い始めただのと噂は流れてくるが、生憎と俺はその手の話にとんと縁がない。

 世の中とは無情である。

 しかし、良かったこともあった。

 クラスで打上げをやったのだ。放課後、校内にあるカフェテラスを貸し切った、立食形式でのささやかな食事会だったけど、クラスメイトとの仲は深まった気がする。

 俺はもっぱら大縄回しを褒められた。やったね。

 ……やったか?

 あのさ、他にもあるじゃない。

 借り物競走で一位を取ったりとかさ。大縄しか褒めるところなかった?


「咲也?」


 ふと、テラさんに声をかけられた。


「ほーい?」

「ほーいってあなた、呑気ねえ……」

「そうかな」

 

 体育祭が終わった後の燃え尽きだろうか、あまり身が入らないんだよねえ。

 そもそも、今日の午後は授業の代わりに生徒総会があるから、余計に……。

 うん?


「生徒総会!?」

「わ、何よいきなり。びっくりするじゃない」


 今度は急にどうしたのよ、と眉を顰めるテラさんを無視して俺は、教室の壁に掛けられた時計を確認する。

 いけない。昼休みが終わるまであと三十五分。


「テラさん、先に行ってる」

「ええ? どうしたのよ」

「生徒会は、皆よりも先に集合しなきゃいけなかったんだよ」


 すっかり忘れてた。

 姉さんに怒られる……。


「呑気ねえ……」

「おっしゃる通りで……」

「別に悪い意味で言ったんじゃないわ。咲也らしいって意味よ」


 それ、悪い意味じゃない?

 釈然としない感じはしたけど、あまり考えている時間も余裕もない。

 「また後でね」とテラさんに見送られた俺は、一旦考えることを放棄して、講堂を目指すのだった。


 今日は、年に数回実施されている中等部生徒総会の日だ。

 体育祭の後に行われる第一回生徒総会では、生徒会と風紀委員会の役員に新しく就任した生徒の紹介が行われる。

 知っての通り、俺はあとほんの一本及ばず役員にはなれなかったから、何も挨拶とかはしない。ただ、生徒会は慣例的にメンバー全員が壇上に上がって、役員の後ろに並んで顔見せするらしいので、俺も行かなければならないんだよね。

 生徒会の顔触れをアピールする目的なのだろうけど、まさに権威主義の残滓ともいうべき習慣だよねえ。

 それはさておき。

 というわけで、本来ならリハーサルに参加しなければならないというのに、いつも通りにご飯を食べてぼーっとしていたからね。もうこんな時間だよね。

 十二時五十分。

 姉さんには「昼休みが終わる三十分前にはいらっしゃい」と言われていたから、あと五分で遅刻です。はい。

 何はともあれ急がないと。

 廊下を早歩きで進んでいると、ふと三宮さんに鉢合わせた。


「め」

「え?」

「めめめ明前様!?」

「あ、はい明前咲也です」


 どうもこんにちは。

 彼女はとても動揺しているようだったが、一度深呼吸をした後、とても綺麗な動作で深々と頭を下げた。


「体育祭の時は助けていただき、本当にありがとうございました」

「気にしないでよ。当たり前のことをしただけだし」


 それに、あの後三宮家の人が明前家に直接のお礼を言いに来てくれた上、高級菓子折りまでもらってしまったので、これ以上はこちらが申し訳ないよ。

 でも、彼女はそう思ってはいないようだった。それが、恩義からくる感謝なのか、迷惑をかけてしまったという罪悪感からくるのか、表情からは分からないけどね。


「あれから大丈夫?」


 話題を変えてみる。すると、彼女はようやく顔を上げた。


「はい、おかげさまで」

「そっか」


 よかった。

 心なしか表情が明るくなった三宮さんと少しだけ会話してから、あらためて俺は講堂に向けて急ぐことにした。


「遅いわよ」


 結局、着いたのは時間ピッタリだった。

 講堂に着いて、開口一番に姉さんから怒られてしまった。


「ごめんなさい」


 時間には間に合ったとはいえ、ギリギリで、しかも肩を上下させながらやってくるのは、明前家の御曹司としては美しくないからね。

 言い訳は、友達と話し込んでしまったからということにした。リハのこと忘れてボーッとしてましたなんて言ったらどうなるか、考えただけで恐ろしい。


「咲也にもそんな友達がいたのね、意外」

「え、ひどくない?」


 いるよ。

 いるよ?

 いくら弟でも言ってはならないこともあると思います。


「輝夜、さすがに咲也さんが可哀想だと思うわ」


 姉さんの傍にいた莉々先輩が口を挟む。

 映画を見に行った時の、帰り際の一言が頭によぎって、顔を合わせるのが少し気恥ずかしいんだけど、今はそんなこと言っていられない。

 さあ、姉さんに対等に意見出来るのは貴方しかいないのです。

 もっと言ってやってください!


「ずっと後ろにいるものね?」

「何が?」


 本当に、何が?

 莉々先輩には何が見えているんですか。

 冗談は程々にしてくださいよ。話題的に、この人が言うと説得力が段違いなんだから。

 意味深に笑わないで。

 今夜トイレに行けなくなるから。


「ちょっと莉々様! こんな時にそういう話はやめてくださいな!」

「あら、亜梨沙さん」


 亜梨沙が、きゃんきゃんと元気な声で抗議しながらやってきた。

 金色に輝く長髪を、編み込んでオシャレしている。普段以上に力を入れている感じだ。

 そんな彼女に、莉々先輩が尋ねる。


「銀水家の氷の女王も、さすがに幽霊は怖いのね?」

「こ、怖くなんてありません! 生徒総会の準備の場でお話することではないと言いたいのですわ!」

「あら、本当〜?」


 分かりやすく狼狽える亜梨沙を見て、先輩の嗜虐心に火がついてしまったようだ。

 つんと意地を張って怖いのを素直に認めない様は、さぞやからかい甲斐があるだろうし。


「本当ですわ!」

「そうは見えないけれどねえ」

「幽霊なんてものは、自然現象で全て説明がつきますもの。現実に存在なんてするはずがありませんわ!」

「ふうん。強がって可愛いわね〜」

「強がってなんていません!」


 完全に標的は俺から彼女へ変わったようで、二人(主に亜梨沙)はやいのやいのと喚いている。

 今のうちに義弥の方へ行ってしまおう。

 どさくさ紛れにそう考えて、移動を始めようとしたが、


「どこへ行くの?」

「えっ」


 莉々先輩に見つかった。いや、亜梨沙もこちらの様子に気づいて、訝しげに睨んでいる。


「どこへ行くつもりです」

「えっと……」


 くそう。言葉に詰まる。

 まさか二人してこちらに気づくとは。

 答えに窮していると、亜梨沙がふと何かを思い出したかのように声をあげた。


「そうですわ! 怖がりというなら咲也さんの方が、私よりも耐性のない臆病な小心者ですわよね!」

「え、ひどくない!?」


 そこまで言う必要ある?!


「……し、親友がからかわれているというのに、助けてくれない方がひどいと思いますわよ?」

「それはごめん」


 俺は何も言えなくなった。

 そして、ちょっと気まずくなった。莉々先輩も、「あらあら……」と空気を誤魔化すように苦笑している。


「……全く、その辺にしておきなさい、貴方たち。莉々もやりすぎよ」


 結局、呆れた姉さんが仲裁してくれたことにより、その場はおさまったのだった。

 ありがとう、姉さん。

 実は幽霊が嫌いなのは、黙っていてあげるね。

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