反逆者クレーフェ

@samayouyoroi

反逆者クレーフェ


「なんだこれは、途中で改行してるのか」

「…前回の会議で数字だけのが多すぎるとの指摘がありましたので…」

「もう乗数だけ表記したほうがいいんじゃないか」


もう開催回数を数えることすら虚しくなった事前予算調査会議はしばしば資料の読み合わせ中に確認(というよりぼやき)で停滞した。


「では質問がないようでしたら次の題目に入ります。次は…」

財務省主計局会計監査調整官ヨデル・クライフは、この会議がもはや予算調査としての意義を失っていることを感じていたが、主管としてこの馬鹿げた調査会議をまとめ、また来週に持ち越されるであろう残件について頭の中で計算しつつ淡々と議事を進行した。


度量衡の統一。人類史上幾人もの有力者が制定を試みて、そして遂に誰もなし得なかった人類の偉大な挑戦である。その偉大な事業に多少なりとも関われると思えば愛娘の誕生日に徹夜で帰宅できなかったことくらいなんということもない。ということにしておかないと正直やってられなかった。


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3時間に及ぶ長大な会議が終わるとヨデルは司計課のオフィスに戻った。連日の残業と徹夜で生気を失った課員がひしめいている。


元々司計課は大所帯のオフィスであったが、通常業務に加えてこの一大プロジェクトの中枢を担ってしまったため、他部署からの一時的な転属や臨時雇いの会計士などによりここ数ヶ月で総勢500人以上の超過密状態になってしまった。


元々ヨデルと彼の部下4人は大部屋の隅にパーテーションで区切っただけのエリアに肩を寄せ合っていたが、スペースの問題でそれすら取り払われ、彼ら5人だけのデスク島は司計課に配属された新たな課員16名のデスクと連結してしまい、会計監査調整官としての機密保持は卓上パーテーションとPCのロックのみとなってしまった。


それでもヨデルたちと新たに配属された課員16名はまだましなほうであり、先月あたりからは小会議室や打ち合わせスペース、はては休憩エリアまで人員が配置された。


そこまで過密になると業務以前に部署としての運用にすら支障が出てきて、例えば出退勤の打刻やエレベーターの問題、部署内移動すらも難しくなり、夕方の忙しい時間になるとデスクを乗り越えるものすら出てきた。


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ヨデルは無言でデスクに着き、無言のまま会議中に注釈を入れた資料を部署内チャンネルで彼の部下4人に共有した。そして4人の部下もまた無言の驚きと怒りでそれに応えた。


これは業務上の機密のための無言でのやりとりであるが、もっと深刻な意味も含んでいる。決してヨデル個人が決定したわけではないが、ヨデルが持ち帰った資料は即ち司計課全体へのさらなる激務に繋がるものである。


現状よりさらなる重圧へ繋がるであろう資料が歓迎されるはずはなく、従って彼らは課員の精神的負担軽減と自分たちの安全のために余計な発言や物音は極力立てないように気を使わざるを得なかった。


当然のことながら部署内チャンネルでは受領アイコンが4つ並んだだけで誰も返信を返してはくれなかった。


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「大変なようだね」

もし司計課長クンツ・バーナーが席に着いたままこのセリフを言っていたらヨデルはついに爆発していたかもしれない。実際には課長執務室に入るとすぐにヨデルを応接に座らせ自らコーヒーを注いでくれてからだったので逆に恐縮することになったが。


課長執務室といえば聞こえがいいが、要するにスペースの問題で大部屋から出ざるを得なかったというほうが正しい。部屋も元々倉庫であり、縦長の部屋はどこか大学の教授室を連想させる。応接セットも一人がけのソファが小さなテーブルを挟んで対になっているだけで、それすらも奥のデスクへの移動の邪魔になった。


とはいえその謙虚さは必ずしも高潔さからくるものではない。課長が大部屋から離れてしまったので、司計課の日々の指示は本来は管理指示権がないヨデルが代行せざるを得なくなった。ヨデルの部下4人も同様で、本来は全く関係がない司計課各係に事実上の業務指示を出すような立場になってしまった。これは当然ながら各係長と軋轢が発生し、またヨデルたちは本質的に会計技官なのでこのような根拠不明な責任(権力ではない)には大きな不満をもっていた。


「課員はもう限界を超えています。これは一体いつまで続くのです?」ついに今まで言えなかったことを口に出した。これは司計課長に遠慮していたのではない。本来司計課の課長ではない自分が負うべき責任ではないと考えていたからである。即ちこの発言は自分が司計課員全体に責任を持つと認めてしまうことに繋がるので言えなかったのだが、この1ヶ月で事実上の課長代理になってしまったヨデルは課員と自分の健康のためにも言わざるを得なかった。


「はっきりしたことは私にも分からないが…」バーナーはそう前置きして

「次の会議の結果で大きな山場を迎えるようではある」と言った。


会議とは事前予算調査会議のことなのだろうか。確認するとそうだという。来週の会議後にまた膨大な修正をすれば終わりということなのだろうか。つまりこの激務はあと2週間ほどで終わる?


信じられない、というより状況がまるで分からない。それにバーナーは「終わる」と言ったわけではない。「山場を迎える」と言ったのだ。つまりそれはさらなる激務になるという前触れなのだろうか。


「…それは私にも分からないが…」奥歯に物がつまったような口ぶりである。

黒く薄い髪、黄色い肌、痩せているのにそこだけはぽっこりとでた腹。典型的なアジア系民族の中年男の容貌ながらゲルマン風の名前なのは帝政移行に伴い改名したからであろう。元々ゲルマン血統であるヨデルにとっては移民のように思えてしまう。公正で健全な性格のヨデルはそれを理由に課長を蔑むようなことはなかったが、民族性からくるなんとも割り切りの悪い課長の物言いはしばしば苛立ちを感じた。


「…今は議会というものがないからね…」それである程度の察しはついた。

つまり現在作成中の事前調査資料はさらに精査・簡略化されて皇帝陛下に上奏されるのだが、ようやくそのタイミングが訪れたということなのだろう。


確かにそこから先のことはまるで分からない。現在のこの世情そのものが先行き不透明であるし、そもそも今年33歳のヨデルは人生の経験も豊富とは言い難かった。それは恐らく50代半ばのバーナーも同様であろう。むしろある程度人生経験のあるバーナーこそ現在の情勢の変化に戸惑いが多いのかも知れない。


一瞬そのようなことに思いを馳せたが、すぐに現実の状況を思案した。「課員にもそのように言ってよいのですか?」これは重要な確認である。終わりが見えるのと見えないのでは大きな差がある。険悪化した部署内の空気の改善にも繋がるし、これは周知していいなら是非とも周知したい情報だった。


「あまり言ってほしくはないが…どうしようもないならあくまで『山場』と言って欲しい。こればかりは本当に分からないんだ」バーナーは心配そうにいった。

この一連の激務を引き起こした責任の一旦を感じているようにも見えた。


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司計課長とはノンキャリアのベテラン職員を以て充てられる実戦部隊長である。ヨデルのようなキャリア官僚は教科書通りの実務には長けているが、教科書では学べない言わば裏の部分にも経験豊富な者でなければこの職責は果たせないとされている。当然それは為人にも現れるはずなのだがヨデルが見たバーナーにはそのような有能さを感じなかった。むしろ無能という印象が強い。


数ヶ月前、突如として降って湧いた度量衡統一のための事前調査業務とほぼ同時に季節外れの人事異動によりバーナーが司計課長に着任した。着任当初から表立って業務指示を飛ばすことは少なく、係長や主任を集めて調査内容の精査を行い、その都度調査範囲を拡大していった。


当初想定していた調査範囲はバーナーの指示により歴史的方面にも及び、結果として想定の数十倍の調査が必要となった。それにより単に数字に強いだけの人員だけではなく、教育・スポーツ・科学・芸術・文化遺産や民族風習までありとあらゆる専門家の助言が必要となり、結果3人の係長と6人の主任が入院という形で戦線を離脱した。課員に至ってはもう何人が離脱したか把握すらできない。入院なのか退職なのか単なる出勤拒否なのかすらもよく分からない始末であった。


とはいえその結果としてバーナーが弱腰になったというわけではない。バーナーの態度は一貫して表立たずに弱腰であり続けた。しかし調査範囲の拡大路線については決して手を緩めず、どれほど反対意見が出ても持久戦で反対者をなだめすかして調査範囲拡大を繰り返した。


そもそもクンツ・バーナーという人は謎の人物である。

司計課長はノンキャリアが就任するということは、即ち会計業務のベテランであるはずで、それは大体の場合において元々司計課に在籍経験のある人間が就任するはずなのだが、司計課でバーナーを知っているという人間は誰もいなかった。財務省という巨大な機構と世情の変化により知己がいないということはあるのかも知れないが、帝政移行前から司計課長に就くものは例外なく元々司計課の「勇者」であり、良かれ悪しかれその威名が轟くような人物ばかりであった。そういう意味でも異色の存在とも言える。


当初の噂では財務尚書クレーフェの側近ではないかとも言われていたが、それにしてはこのやり方では尚書の首が(物理的にも)飛ぶんじゃないかとも冷笑され、また業務の激化に伴いそんな噂話をしている余裕は失われた。


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「だからカイゼル・ハーフ・キュビットじゃ不敬に当たるだろ!書き直せ!」

「それが丁度25センチなんだから当然だろうが!いちいち0.825カイゼル・ペースとか使いづらいだろうが!」「ここゼロ2桁も抜けてるじゃないか!これじゃ420澗帝国マルクにしかならないぞ!」「だからもう乗数だけにしろっていったのに」

「すいませーん帝国宝飾協会から匁の扱いについて問い合わせ入ってまーす」

「担当者いまいないってお願いしまーす」「無理だわ帰るわ」「まておい!帰るな!寝るな!泣くな!吐いたら片付けろ!」


ヨデルが課長執務室から戻ると日々の変わらない怒号の応酬が始まっていた。ああもう18時か。そういえば今日はまだ昼食を摂っていなかったな。あれ?そもそも朝食を摂ったっけな?いやまてまて昨日夕飯食べたっけ?そういえば昨日だか一昨日にレーションを用意してもらってたような…


デスクに戻るときにふと無精髭のくたびれた中年男が視界に入ったが、それが鏡に写った自分だと気がついたときにこれはいかんと気力が沸いた。


「おーい!みんなちょっと聞いてくれ!」ヨデルが声を張り上げた。

ヨデルにとって初めての行為である。入省当時、その整った顔立ちと温和な性格で王子様と呼ばれていた青年は、いまや500人の部下と妻と娘に責任を持つ立派な男になっていた。意外な声に怒号が止み皆が耳を傾ける。


「みんな本当にお疲れ様。まだはっきりしたことは言えないが、来週の調査会議が終わって、その修正が入ったらとりあえず一山は超えるはずだ。だから本当に申し訳ないけどもう少し頑張ってくれ。イアン、君は今日はもう帰っても大丈夫だ。確か3日連続泊まり込みだろ?」


力なく、しかし確かに希望の歓声があがった。若い女性職員の中には表情が固まったまま涙を流すものもいた。イアンはそのまま椅子にへたり込んだ。


終わったわけではない。しかし確かに何かのターニング・ポイントは提示されたのである。この数ヶ月、ただ積み上がりそして修正する業務の中ではまばゆいばかりの光明であった。


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「…10の112乗…?」

「…これは…」

「…尚書、これは検算しているのですか?」


閣僚や側近たちから上がる戸惑いの声の中、実に申し訳なさそうにクレーフェが小さくなっていた。小さくなったまま、小さな声で回答した。

「私も驚いて4回検算を命じましたが…過去の検算結果は用意してありますが…」

クレーフェの後ろには台車10台に資料ケースが山のように詰みあがっていた。


臨時御前会議は豪華な円卓に閣僚が間をあけて着座し、上席には皇帝の側近数名が占めていた。その円卓から離れた一段高いところに偉大にして唯一至尊なる大帝、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが臨席していた。そのルドルフ大帝にしてもこの膨大な数字と資料の前に龍顔の麗しさを欠いた。


「…この試算では5年度国家予算で11万年分に相当する費用となりました…」

帝国歴5年予算とは既得権益を持つ大企業や財閥の株式を接収した結果の国家予算である。通常ではあり得ない獲得方法であり、これの11万年分とは完全に不可能を意味していた。


「朕が帝国は永劫ではあるが」

龍声が会議に響いた。文字通りに響いたのである。低く大きく良く通る声はルドルフのカリスマを支える要素の一つであった。


「これを推し進めるは臣民が永く苦しもう」

円卓に着座する群像たちは大帝の大御心に対して一斉に頭を下げた。そのため群像たちは眉根をよせ鼻を歪ませた龍顔を拝する必要と責任から逃れることができた。


臣下に頭を下げさせたままルドルフは退座した。大御心により度量衡統一プロジェクトは凍結されたのである。決して着工予定の第2後宮建設費用に影響が出るのを懸念したわけではなかった。


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「お疲れ様でした。義兄上」

「お止めください尚書、私はなにもしていませんよ」

財務尚書クレーフェは義兄と二人で私館の応接室で酒を酌み交わした。


「…度量衡の統一、成せば人類史上の快挙でしたな」

「全く残念なことです。まさかあれほどになるとは思いもしませんでした」

この時代、人工衛星から対象を監視し音声や映像を収集するなど当たり前の技術であり、すこし監視を強めれば数台の人工衛星が角度を変えて透過監視し、地面以外の角度から撮影し3D映像化することも可能である。そのため二人はあくまで度量衡統一プロジェクト凍結を悔やむ発言をしていた。しかしその表情、その目はわずかに緩んでいた。


彼ら二人だけのプロジェクトを始めるまではここまで警戒する必要がなかったが

それが成った現在、いつ疑いの目が向けられるかは分かったものではない。どういう形にしろ大帝ルドルフの意志を挫いたのは確かであり、例えそれが全く作為のないものだったにしても、いつどのような形で災禍をもたらすかなど誰にも分からなかった。ましてや今回は明確な作為があったのである。


確認に似た挨拶を終えると話は彼らの本当の専門分野に転じた。

「ほう、ルーズベルト博士の定理に異説が」

「とはいえこれを指摘しているのはアンシュッツ博士ですがね」

「30年来の復讐といったところですかな」

クレーフェがルドルフに信任される理由は彼が元々数学者であり不正と無縁の存在と見做されていたからであり、さらに遡れば士官学校の同窓生でもあったからである。


これより遥か未来、歴史学者を志すとある青年がそうであるようにクレーフェもまた経済的理由から「ただで数学を学べる」という理由で士官学校に入学していたのだ。そして同様にクレーフェもまた「数学馬鹿」であり、それが理由でルドルフの警戒を向けられることがなかった。


クレーフェは士官学校を卒業後に入営することなく私立大学の准教授として勤め、

経済的には凡庸ながら研究と授業に埋没する日々を送っていた。それがたまたまルドルフ政界進出前の非公式の政治活動としての同窓会で再会した。それからまたしばらく間が空くが、ルドルフが権力を身に着けていく過程で招聘され事務所の経理責任者として迎えられる。以後は破竹の勢いで権勢を獲得するルドルフについていき、気がつけばゴールデンバウム執政官からルドルフ大帝の側近の一人として数えられるようになっていた。


ルドルフの周りにはルドルフを神の如く仰ぐ部下たちが権勢を身に着けていったが元来出世欲などないクレーフェは後輩に追い抜かれてもさほど気にも止めず淡々と経理部門を運営し、それが逆にルドルフに信任される結果になった。「会計アプリが勝手に黒字計上しても困る」とは側近たちとの会合でルドルフがクレーフェを評した言葉である。つまりあくまで機能として信頼したわけである。


クレーフェ側もさほど気にはしなかった。元々クレーフェはルドルフと友誼を交わしたという記憶もなく、単なる同窓生、単なる雇い主であった。ルドルフの暴虐に全く無関心ではなかったが、彼自身も銀河連邦の腐敗と不正の被害者であり、その体制を転覆させる過程でしょうがないことだと思っていた。


しかし度量衡の統一だけは赦すことができなかった。それは即ち人類の叡智である数学の歴史を変えてしまうことになる。あのルドルフが!しかし独裁者ルドルフにとても反対意見など言えるわけがない。そこで同じ数学者でありかつての同僚でありいまや義兄となった彼と一計を案じたのである。


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「兄さんとてもお似合いよ」

ワインを片手に妻のカルラが入ってきた。くすくすと笑っている。

若い妻は見事な赤髪である。義兄はふんと鼻を鳴らした。

「別にこだわるような容姿じゃあないが…しかしこれはなあ」


クンツ・バーナーは改名したわけではなく生まれついての本名である。変えたのは名前ではなく容姿のほうだった。当初は名前を変更することも考えたがそれは戸籍などにも影響を及ぼすので返って危険だと判断し、逆に医療技術でどうにかなる身体的特徴を変えることで言わば事前に変装しておいたのである。もちろん本格的に疑われたらこれで司直の手を完全に逃れることは難しいが、その前段階で大きな目くらましにはなる。


財務尚書クレーフェの義兄であるという戸籍上の利点を利用しつつ、かつ容姿を変えることで対人関係では本来の自分と全く別人として振る舞うことができるという妙案であった。課長着任後すぐに執務室を構えたのは、それでもなるべく人との交流を減らし前後で影響を及ぼさないようにするためでもあった。


「大学に戻るのですか」改めてクレーフェは質問した。

「まあしばらくはもらった給料で食いつなげそうだし少しはゆっくりさせてもらいますよ」

「いつもゆっくりしてるじゃないの。その若いキャリアの人なんか兄さんの30倍も働いてたんでしょう?」笑いながらカルラが毒づく。

「まあ彼には悪いことをしたと思ってるよ。尚書、私からは何ともいいづらいですが、今回のことでクライフ調整官の大変な尽力があったことは申し添えておきます」


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数ヶ月ぶりに自宅で飲むコーヒーはヨデルにしみじみと日常の幸せを感じさせた。正確には数ヶ月ぶりではないのだが、ヨデルはウラが煎れてくれた熱いコーヒーをゆっくりと時間をかけて飲むことが好きだった。


この数ヶ月の間はとてもそんな余裕はなく、一息で飲めるようなぬるいコーヒーなら相当まし、大体の場合は冷やした缶コーヒー、ひどいときはそんな余裕もなく日も登らないうちから出勤するという状況が続いていた。


妻のウラが煎れてくれた熱いコーヒーとサンドイッチ、よちよち歩きの愛娘フリーダ。ただこれだけの光景がこの上ない幸福感をもたらした。


「ヨデル、痩せたよね」ウラが言った。「ちゃんと食べるもの食べないと死んじゃうよ」憎まれ口の中に確かに夫を心配する成分が混じっていた。


「心配かけてごめん」ヨデルは素直にそういった。

「でももう大丈夫、いつも通りちゃんと帰ってくるよ」

「いつも通り?いい加減10時前には帰ってくるようにして欲しいんですけど」

ウラが冗談めかして、でもぴしゃりと言った。


ウラは夫の出世より家庭の幸福を願う女性であり、その意味で聡明でありまた勝ち気な女性でもあった。夫の激務を察すると缶コーヒーや携帯食などを常備していつでも摂食できるようにしたのは一見突き放したように見えて実は深い愛情と理解の現れであった。


司計課としての山場は先々週ついに終わったが、事実上の課長代理としてヨデルはなお事後処理に奔走せざるを得なかった。その上まったく唐突にヨデルは正式に課長代理を拝命した。理由はバーナーの異動であり来年まで課長は着任しないという。司計課課長代理という役職は常設のものではなく、これは事実上、司計課長への内示であると噂された。


会計監査調整官から課長になるのは異例であり、これはキャリアでありながらヨデルが「勇者」と認められたという証でもあった。


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「じゃあいってくるよ」玄関でウラと軽いキスをしてヨデルは家を出た。

その顔に髭はなく、かつて王子様と呼ばれた面影は強く残っている。見ようによって20代の青年のようであった。


駅に向かう途中でふと男性と視線があった。

ヨデルよりは年上に見えるがそれでもまだ40手前くらいに見える。見事な赤髪を短く刈り込んであり、痩せた身体にサマージャケットを羽織っている。なかなか見栄えがする男だった。


男はふと口元だけで笑い、左手を軽く上げると振り返って去っていった。はて知り合いだったかな?どこかであったような気もしたがそれに思いを馳せる間もなく通勤トレインの時間が迫っていた。


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